月に舞う桜

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2009年02月10日(火) 時を越えて、支えられている。

過去の私やこれまでに出会った人たち、彼らの言葉は、ふいに今の私を助けてくれる。

朝ご飯を食べているとき、何の前触れもなく、先生の言葉がよみがえった。もうずいぶん長いこと、先生のことなんて思い出さなかったのに。
24〜25歳の頃、片道2時間かけて、母校大学の付属病院の精神科に通っていた。なぜそんな遠くまで行っていたかと言えば、先生に診てもらいたかったからだ。学生時代、講義を受講して好印象を持っていた。
ある日の診察、無性にイライラして困ると訴える私に、「イライラするのは、心がやわらかくなってきたってことだよ」と先生は言った。イライラしている状態はつらいだろうけど、変化が出てきたんだから前進している、良いことだ、と。
そのとき、私は納得した。説得力があると思えたのは、先生を信頼していたからだろう。
絶望の中で心が冷え固まり、感情を切ってしまった状態よりは、たとえ苛立ちでも、感情が出てきたのはマシなことなのだろう。そう思って、そのときの自分を少しだけ肯定できた。

その頃とは状況がまったく違うから、先生の言葉をいまの私にそのまま当て嵌めることはできないかもしれない。けれども、このイライラ感は、少なくとも最悪の状態ではないのだ。

そう思えたら、心が軽くなった。
そして、家を出た。
途中、見ず知らずのおばさん(と言うか、おばあさん?)に声をかけられた。
「大変ね。若いのに車椅子で、お気の毒に。私くらいの年だと、そうなっている人もいるけど……。頑張ってね」と。
私は、おばさんに対して何も言っていない。おばさんの方を見ていたわけでもない。例えば段差があったとか、膝に荷物をたくさん乗せているとか、そういう大変な状況だったわけでもない。
何もないのに、唐突にそう話しかけられた。

こういう人種は、ときどきいる。
彼らはいったい何の意味があって、わざわざそういう発言をするのだろうか。
やさしい人だと思われたい? 優越感に浸りたい?
私が「お気遣い頂いて……」と、ありがたそうに微笑むとでも思った?

あなたに言われるまでもなく、生きていくのは大変です。みんな、大なり小なり大変なんです。
あなたが「お気の毒に」と言うことでその大変さが少しでも軽減されるなら、どうぞ何百回でも仰って下さい。でも、実際のところ、あなたの言葉は何も生み出さない。私を不愉快にさせるだけです。

「頑張ってね」って、いったい何を?
生きること? あなたのような人種に寛容でいること? 理不尽な電話に笑声で応対すること? わけのわからない上司とうまくやっていくこと?
それとも、何を?

例えば、大きな仕事や試験の前に友達が言ってくれる「頑張って」は、心から嬉しいと思う。
でも、私のことを何一つ知らない無関係の人間が、何のやり取りもなく唐突に投げかける「頑張って」は、大嫌いだ。
むやみに他人に頑張れと言ってはいけない、なんてことくらい、いまどき誰でも知っていると思っていたけど、まだまだ違うのね。

仕事していると、人生の先輩から学ぶことが本当に多い。年を重ねるのは悪いことじゃない、と思える。
けれど、上のような人種に出会うと、「無駄に年だけ取りやがって!」と腹が立つ。大切なことを学ばずに、年だけ取って立派な人間になったような顔をしている人間は、害悪だ。若さゆえに無知だったり傍迷惑だったり生意気だったりする人間よりも、はるかにタチが悪い。

頭にきて仕方なかったので、会社に着くなり、「朝から、変なばばあに声かけられた!」と同僚にぶちまけた。
すると、一人は「お前が頑張れよって感じだよね」と言ってくれ、もう一人も同調しつつ、自分の同じような体験談を聞かせてくれた。
おかげで、すうっと心が晴れていった。
こういうとき、いまの職場にいて良かったと思う。病気や障害の内容と程度は違えど、やっぱりどこかで分かり合える部分も大きい。

同僚に向かって無邪気にぶちまけることができたのは、先生の言葉を思い出したからだと思う。
自分を肯定していなかったら、心にしまってイライラを募らせていただろう。


桜井弓月 |TwitterFacebook


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