月に舞う桜
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昼間のテレビ番組で、尾崎紅葉の『金色夜叉』は夢オチがあり、しかも未完だということを知った。
そのあと、ベッドにうつ伏せになって東野圭吾の『幻夜』を読み(分厚すぎて、いつ読み終わるか分からない……)、首や肩が痛くなったところで、突っ伏して目を閉じた。 深い眠りまではいかないけれども、ふわふわと気持ちの良い状態になり、ぼんやりした頭でふと考えた。
私のこれまでの人生も、もしかすると夢オチだったりして。 27年弱の間に私が経験してきたことや出会った人たち、それらは皆、本当は夢の中の出来事なんじゃないだろうか。うれしかったことも、悲しすぎることも、すべて。 私は長い長い夢を見ていただけで、今のこの、ふわふわとした夢うつつの状態は、長すぎる夢から覚めようとしている途中なのではないか。 目覚めると家には見知らぬ人がいて、例えばその人は私の母だったりして、「やっと起きたの?」と私に声を掛けるのだ。それで、私がこれまでの人生の話(家族や友人や仕事のこと)をしても、「何を馬鹿なこと言ってるの」と取り合ってもらえない。 いや、家には見知らぬ人も誰もいなくて、私は本当は一人ぼっちなのかもしれない。
シーツに頬を当てて、私はそんなことを考えていた。 いずれにしても(見知らぬ家族が現れようと、一人ぼっちだろうと)、私は夢オチだという事実を受け入れて、すんなり「本当の人生」に溶け込めるような気がしていた。そんなものか、という感じで。
夢に一歩足を踏み入れていると、特にそれが昼間だと、夢を現実だと錯覚するよりも現実を夢だと錯覚することの方が多いような気がする。夢と現実の境界線に自分が立っているから、二つの世界が混ざり合う。混ざり合って、何故か現実の方が薄れてしまう。
私は、昔から「自分の人生は実は夢オチでは?」と考えることがたびたびあった。 心のどこかで、夢オチを望んでいるのかもしれない。そんなに不幸な人生ではないのに、漠然と、どこかで。
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