月に舞う桜
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2007年03月22日(木) |
そして大切なものだけが残る |
「忘れる」というのは、人間が持つ能力の中で最も重要なものの一つだ。
もうずいぶん昔、あまり快く思っていなかった人がいる。憎んでいたとか傷つけ合ったとかじゃなく、たぶんウマが合わなかったのだ。 その人の近況を、人づてに聞いた。本当のところなんて本人と本人のごく近くにいる人にしか分からないけれど、聞いた限りでは幸せな生活を送っているようだった。関わりがなくなってから今までの間に、私が想像するよりずっとしっかりした考えを持ち、私なんかよりもずっと地に足のついた大人になっているみたいだ。 近況を聞いたとき、その人に対する昔の嫌な感じは私の中からすっかり消えていて、自分でも不思議なんだけれど、ただ純粋にその人の穏やかで幸福な日々を願う気持ちだけがあった。 これから先、その人と再び関わりを持つことはもうないだろう。持ちたいとも持ちたくないとも思わないけれど、私たちには交わる点がないような気がするのだ。 それでも、これからもその人はこの世界のどこかで生きていて、今と同じように愛する人たちに囲まれて暮らしていければいいな、と思う。
子供の頃から、季節の中で春が一番好きだった。 それはずっと変わっていないけれど、ここ何年かは春先になると浮き浮きするのと同時に、ちょっと思い出すことがあって心の隅っこがちくりと痛んでいた。 でも、今日の会社帰り、火曜日よりも明らかに暖かくなっているのを感じたとき、ちっとも心が痛まなかった。今年の春は生活が何も変わらない予定なのに、何か新しいことが起こるような気がして、目を細めて空を見上げた。そのときの私の心には、一点の翳りも切なさもなかったのだった。 別に「事実」を忘れたわけじゃない。ただ、その事実への記憶に付随する痛みが消えただけだ。でも、それは私にとって「忘れる」に等しいのだと思う。 忘れた方がいいことを忘れ去り、残ったのは、私は相変わらず春が好きだということだった。
積み重ねていく記憶よりも、「忘れる」に支えられて生きているんだなぁと感じた日だった。
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