2006年04月28日(金):夜中にこっそり玄室に忍んでくる吉村作治と、YES/NO枕で応じるフ ァラオ
こんな記事書いておいてなんですが、
あれは朕個人の感想、好き/嫌いであって批評では無い。

またAよりBが上だ/下だ、などと順位をつけるつもりもない。


いや、昨日の記事を書いて、世間の他の人はジャンプをどう思うてるんかな、とあちこち巡ってみたが…。
一番目についたのがA派対B派の論争と言う形、「A>Bだ、いやB>A」と言うもの。

こんな、塩ラーメン・醤油ラーメン・味噌ラーメン(五十音順)のどれが優れているか、て言ってるようなもんよ。

「Aは商業主義だからダメ」とか「Bの絵は描き込みがすくないからダメ」とか…。

そら作者にとってマンガって何か、と言う点でも違ってくる。
作品に込めたメッセージを伝えたいやつもいれば、自分が好きだから好きなように描きたいやつもいるだろうし、生活の糧なだけのやつもいるだろう。
それは漫画家に限らず、クリエイターと括れるもの全て同じ。
だから例えば「商業主義だ」と評されても、作者自身も商業的成功のみ念頭において創作してるなら、それは正しい結果が出ているとしか言いようがないわけで。

先のブログにて朕も「小学生なら喜ぶかも」などと書いたものもあるが、それも作者がターゲットを小学生に絞っているのかも知れないし、それで小学生がその作品を楽しんでいるなら、それは幸せな結末であり、言い換えれば朕が楽しめるかどうかはどうでも良いわけだ。

なのに何故、人は他人の嗜好にまで強制を行いたがるのだろうか。
「自分が好きなものは皆も好きになって欲しい」、これは心情的には許容範囲であろうが、
「自分が嫌いなものは皆も嫌いになって欲しい」、
この意識が発露することには懸念を禁じ得ない。

これはまるで、
米国の思想と同じでは無いか。

そこで、以下の文を引用する。

彼の国の思想根底にある宗教は、中世期に日本にまで訪れた宣教師など歴史の事実を見るまでもなく広げることを目指す、言わば世界の思想の統一である。
対して、例えばムスリムは布教活動は極めて控え目である。自分たちは深くその教えを守るが、それを強引に他者に勧めることはしない。

また、他の例として捕鯨なども挙げてみよう。また同じくこの国の動物愛護団体は、鯨を殺すのは可哀相だとのたまう。我々日本人は文化として捕鯨を行う。
我々はだから彼らに捕鯨を勧めたりも強制したりもしない、彼には彼らの、我らには我らの文化があると知るからだ。しかし彼らは、我々にも「可哀相だと思え」と思想を押し付ける。

我々はそれでも、そこから派生する「争い」そのものを避けようとする、言わば仕方なく「可哀相そうだと思っているフリをする」。

しかしこれがムスリムだと、「自分たちの思想を押し付けはしない、だがその思想が冒されそうな時は断固抵抗する」、依って衝突が生まれるのは必然。

何かを強制されれば、抵抗するか帰順するかしか無いのだから当然である。

衝突の回避が、イコール平和だとするなら、平和の最もシンプルな獲得方法は、「他者への無関心」である。

     (玄田牛一『コミュニケーションの否定が生む、円滑な異文化コミュニケーション』.2002.民明書房)

また、同著で筆者は、『世界最大の宗教ですら高々10億人、6人に1人の人間しか同じ思想を持ち得ていない』ことにも触れ、『極論すれば、この考えさえ誰かに強制する気は無い。あくまで私はこう思っている、と言うだけである。』と述べている。
要するに、思想を含め趣味嗜好を統一することは不可能と言うことだ。
なら他人のことはほっとけよ、と。

「ほっとかない自由」を主張することも自由?それもそうだ。だが、それだと衝突を生む可能性があるということを忘れないで欲しい。
「平和の為の積極的無関心」と言えば良いのか。
なんにせよ、朕もこの「無関心のススメ」を人に強制することなく広まっていくことを願う一人である。



ハンバーガーは好きだけどね。


〜今日の男塾名物、犯刃亜牙阿:ビッグマック+馬鈴薯M+コークM〜
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