こんな一日でした。
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先日、森美術館の「秘すれば華」展を見に行った。東アジアの現代美術、とのことで、テーマは「伝統と現代」らしい。
印象的だったことは結界。「ここから入らないでね」という結界線が展覧会場には必ずある。 山口章さんの茶室の作品で、茶室のそばには、茶室らしく、石の結界がちょこんと置いてあるのだが、置いてある場所が、その美術館が設定する結界線のとなりなのだ。作品としての「結界」と、実際の「結界」が並んでるわけだ。 「で?」と思わなくもなかったが、靴を脱いで作品の中に入らないと、見ることが出来ない作品も多い中、結界に、むしろとても「伝統と現代」を感じたのだった。 (この茶室の作品は、なんとも綺麗だと思う。 雑誌で見た時も綺麗だと思ったし、本物も不思議に綺麗だった。他の作品もそう思ったけど、山口さんの作品は、アイロニーというより、繊細な、綺麗な感じがまず感じられて、私は惹かれる。会田誠さんにも通じる「伝統と現代」な作家だろうけど、会田さんの残酷な面白さと違って、洒落、粋な面白さ、という魅力も良いなぁ)
作品と対峙して見るのではなく、作品自体の中に入ったりするというのは、現代美術では良くあることだけど、私はあまり好きではない。作品を人だと思えば分かってもらえるだろうか、この不快感を。 その人/作品に会って、共鳴したり、感銘したりしてから、私は相手との距離をなくすのであって、まだよく知りもしない相手の部屋には入り込んだり、相談をぶたれたりする筋合いなどない、と思ってしまう訳だ。
トーマの心臓という、萩尾望都の名作漫画の中に、親しみを持って、甘えて近づく少年トーマを寄せ付けまいとする主人公が「君なんて知らない」と、答えるシーンがある。 トーマが、その台詞によって、死を選ぶところから物語は始まる。でも、この物語が成立するためには、「君なんて知らない」ということと「君を知っている」という距離、関係、というものを、デリケートに受け止める感覚がなければ、何を語られているか理解することは出来ないだろう。
今回の展覧会には、バスルームの作品もあった。 作品であるところのバスルームに、3人ずつ鑑賞者が入ることが許される。靴を脱いで中に入り、渡された虫眼鏡で小さな造形物をそのバスルームの中から探して見て回るのだ。 面白くないわけではないけど、他人ばかりの中で、靴も脱がされて、あてがわれた虫眼鏡で、作品を覗かされている自分が、なんだか情けなく思われた。
もう一つの作品は、部屋がそのまま天地逆さになって、天井に机や本棚が張り付いており、床、つまり作品における天井に当たるところに鑑賞者が寝ころんで、天井に張り付いている「床」を見る、という作品もあった。これもまた、靴を脱がされる。家族連れなど、そこそこ楽しげに「床」を「見上げて」作品の中で寝ころんでいる。
私は、靴を脱ぎたくなかったし、天井であるところの床に寝ころんで、天井に張り付いた床を眺めることに、それほど熱心な気持ちにもなれなかったので、ちょっとしばらく覗いて、作品を離れた。
離れて気が付いた。作品の外壁には、ビデオが設置されていて、中で寝ころんでいる人々の姿が映し出されているのだ。鑑賞者は作品の中に入るどころか、作品自体にさせられている訳である。 全く「君なんて知らない」と、思わないではいられない。
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