優雅だった外国銀行

tonton

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22 シャピュー支店長の定年
2005年06月01日(水)



支店長のシャピュー氏が定年になる。60才だ。 日本人と違って彼らは定年を喜ぶ人の方が多いと聞いている。 本来、フランスに於けるパリ国立銀行の定年は65才なのだが、国外勤務者には4年に1年のおまけが付く、20年外国に居ると5年定年が早くなる。 定年後は最終賃金の60パーセントの年金が支給されると来日したばかりのラボルド氏が自慢していたのを思い出した。

イランで革命が起こった。 パーレビー国王が追放され、ホメイニ氏の時代となった。 これはパリ国立銀行だけでなく、世界の金融機関にとって影響は大きい。 通貨が否定されたのである。 元々イランでは、宗教的な理由で金を貸しても利子を取る事は許されてないのだそうだ。 だから銀行は、金を貸すと「お礼」をもらう。 しかし、ホメイニ氏は通貨を否定したのである。 イランから銀行が無くなった。 テヘランに在ったパリ国立銀行の関連銀行バンク・エテバラット・イランも、他の多くの外国銀行と共に撤去を余儀なくされてしまった。

テヘラン支店の支店長であったルレー氏が、その一の子分シャントレル氏を伴って東京支店に来る事になった。 パリ国立銀行の内規で、親子が同一支店で勤務してはならない事になっているそうで。 謙治にとって運の悪い事に、仲良しの上司ベナール氏はルレー氏の娘婿である。 ベナール氏は大勢に惜しまれてサンフランシスコへ去ってしまった。 2度目の東京支店勤務で、副支店長の地位を楽しんでいもジュリアン氏も、シャントレル氏に席を明け渡して、今度はパナマへ行った。

一時期にたくさんの人が入変わった。 ドゥモンティーユ氏が大阪へ行ってしまったため、後任にモントリオール支店からやって来たモレオン氏は、頭は禿げ上がっていたが、その分を髭に蓄え髭の中に口が半分ほど見えているといった風情の人で、ゆっくり話す英語は分かりやすく、フランス人特有のHの音も出す事が出来た。 しかし、これも多くのフランス人にありがちな事だが、SとCが難しく、港区千葉(芝)になったり、芝県石川市(千葉県市川市)になったりした。

ルレー氏より一足早く着任した赤ら顔のシャントレル氏は、禁酒の国イランに暮らしていたとは思えない酒豪で、日本酒が飲めるのを楽しみにしていたという。 一升瓶が2本目になる頃から能弁になり、平気で朝まで愉快に話し続けることが出来る強兵である。 それでいて、シャントレル氏は紳士であり、常に誰に対しても丁寧であった。 お茶を汲んでくれる中年を過ぎた女性を、外人達を含めて皆は「おばさん」と呼んでいた。 シャントレル氏は、何度説明しても「ミセスおばさん」と呼ぶのを止めなかった。

皆に慕われていたベナール氏の後を引き継いで、秘書課のチーフとしてやって来た運の悪い男がトリポン氏である。 彼は、まず、容貌の点で損をしていた。 BNP本店のラグビーチームに所属していたという彼は、早速自分の参加出来るチームを探し、在日外国人ラグビーチームに参加した。 毎週末に横浜の方のグランドへ出かけ、米軍や日本の大学生チームとぶつかり合い、足を引きずったり、顔にバンドエイドを貼ったりしていた。 しかし、彼も勤勉さに於いてはベナール氏に引けを取らず、共に働く事を謙治は嬉しかった。

支店長シャピュー氏とドライバーが、後任の支店長ルレー氏が到着する朝、迎えのために成田へ向かった。 みんな何となく落ち着きが無く、秘書課員たちの机の上は普段よりは整頓されていた。 9時半頃に着くエール・フランスの便である。 通常であれば昼前に丸の内の事務所に到着する。 お昼になったが未だ来ない。 1時になった、未だ連絡が無い。 飛行機は定刻に着いていた。 交通渋滞だろうか。 何処かへ回ってしまったのだろうか。 昼食に出そびれた秘書たちが、どうしたものか迷い始めた。

「ルレーさんとおっしゃる方が、お見えです」キャッシュ・カウンターからの連絡である、時を過ぎていた。 鼻筋の通った、ややおっとりした大柄な男が、にこにこして立っている。 「君がミスター津村か、アランから君の事は良く聞いている。 空港では誰にも会えなかったのでタクシーで来た。 タクシー運転手は、パリ国立銀行を知らなくて来るのに手間取ったよ。」大きな手でゆっくり、長い握手をし。 「ところで、お金が無いのでタクシー代が払えない」。 謙治は、この大男を好きになった。 アランとは、サンフランシスコに転勤になった謙治の上司だったベレール氏のファースト・ネームで、ルレー氏の娘婿である。

成田空港は、迎えに出る人に親切には出来てない。 通関ロビーと出迎えロビーの間のガラスは、何故か濃い色になっていて中の様子は見えにくい。 おまけに出口は二ヶ所ある。 旅行者がどちらから出るかの特定は難しい。 だから会えない事が有っても不思議はないかも知れないが、シャピュー氏もルレー氏も、お互い顔見知りなのである。 申し訳無いと思いながらも、新旧両支店長が到着ロビー付近を、血眼になってお互いを探しまわっている様を想像すると滑稽であった。 その間、ドライバーは何をしていたのだろう。 謙治が空港へ迎えに出たのは、羽田の時から数えると何回になるだろう。 恐らく数百回を数えるであろう。 ほとんどの場合、初対面の人を迎えに行った。 「会いそびれたかな」と思った事が何度もあったが、幸いな事にまだ失敗は一度もなかった。

エール・フランスの人に無理を言ってシャピュー氏を探してもらった。 2時半を回っていたが、シャピュー支店長は未だ空港ロビーに居た。 遅くとも10時半には通関が終わっていたと思われるので、4時間も探し回っていた事になる。 何と辛抱強い人よ。 機転が利かないと言ったら失礼になるのだろうか。

シャピュー氏は謙治に、「お前は、来年1月から総務のオフィサーになる、がんばるように」と言って、6年8ヶ月の東京での、そして40年近いBNPでの勤務を終えて、ひとまずパリへ帰って行った。 謙治は、定年退職者の気持ちを推し量る事が出来なかった。 寂しいのか嬉しいのか。 少なくともシャピュー氏夫妻は、第二の就職の事や生活費の事を心配する必要はないのである。 最後に空港へ向かう車の運転を、シャピュー氏は謙治に頼んだ。 彼のドライバーは、普段は夜の勤務をいさぎよしとしないのであったが、さすがにこの夜は、自分が運転して空港でさようならを言いたかった様だ。 確かな理由は分からなかったが、謙治は、最後の運転を依頼された事に感謝し、会話は少なかったが、空港への慣れた道を、複雑に幸福と哀しみとで満たされた気持ちで、心持ちゆっくり走った。

謙治は、シャピュー氏との数年間をゆっくり振り返っていた。 人は、経験によって学び、人格形成にも大きく影響する。 シャピュー氏には、一般的日本人から見ると、奇妙と思われるくらい鍵にこだわる所があった。 アフリカでの長い生活がその様にさせたのであろうが、電話にも、冷蔵庫にも鍵を掛けたがった。 銀行の彼の部屋には、ソフト・ドリンクを冷やしておく為の冷蔵庫が置いてあった。 鍵付きの冷蔵庫が彼の望みであったが、東京中探しても見つからなかった。 そこで、冷蔵庫を木のキャビネットで覆うことになった。熱抜きを考えたチークウッドの特製キャビネットは、ソフト・ドリンクの缶千本分以上になった。
電話に鍵というのも不思議であった。 電話は、当たり前の事であるが、銀行内どこにでも、誰の机にもあった。 だが、シャピュー氏は、銀行の交換機を通さない彼専用の電話に鍵を欲しがった。 ダイヤル式の電話のダイヤルに鍵を掛けて回らなくするのを、ヒルトンホテル・アーケードの旅行社のカウンターで見た事がある。 そこは、オープン・カウンターで、旅行社員が居なくなると、宿泊者が誰でも電話に手が届く位置にあった。 だから、そこでは鍵は有効なのであろう。 その鍵も、余り真剣に探さなかったが見つける事が出来なかった。 海外で買ってこなくてはならないようであった。 そこで、電話も鍵付きキャビネットに収納される事になったのである。 それも、これも、楽しい思い出である。

6年後の9月、シャピュー氏が他界したと夫人から連絡があった。 気候が良いからとフロリダに住んでいたが、余りにも短い余生では無かったろうか。死因は事故ではないと言うだけで分からなかった。 糖分の取り過ぎが原因では? ふと、謙治の脳裏をかすめた。 一般的にフランス人は甘いものが好きであるが、シャピュー氏は糖分をかなり多量に摂る人であった。 何でも誇張するメイドの話しだから、百パーセント信用する訳には行かないかも知れないが、毎朝2センチジャムを塗った食パン2枚を、角砂糖を四個入れたミルクで食べていたという。 事務所でも、彼の部屋の冷蔵庫には、あのどろどろした森永のピーチネクターの缶がたくさん入っていた。

シャピュー夫妻は双方とも再婚であった。 再婚前のシャピュー氏は、ヘビー・スモーカーであったらしい。 2人は、ガボンのゴルフ場で知り合い、中年は過ぎていたが熱烈な恋愛の末結婚したのであったが、「私を取るか、たばこを取るか」と言って、たばこを止めさせたシャピュー夫人が、糖分の取り過ぎを押さえようとはしなかったのだろうか。




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