暴かれた真光日本語版
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2004年01月25日(日) 062 publicationsinJapan


「真光」の立教の地は東京・神田の須田町である。
神田・須田町は「神の巣立つ所」であるとして、岡田光玉はここを立教の地に選んだ。彼が最初に、布教の為に開いた道場は神田須田町二丁目七番地にあった「多楽福(たらふく)」という中華そば屋の二階だったという。
「多楽福」という屋号が、時代を物語っている。恐らくは、食糧不足のひどかった戦後の名残りをとどめた屋号であろう。
中華そば屋の二階が最初の道場となったことについて、初期の頃からの信徒である大森ひでは、「何でも、その中華そば屋の入っていた建物の家主さんが救い主様に病気を治してもらったんだそうですよ」と語っている。
かつて、この建物のあった所は東北新幹線を東京に乗り入れる橋桁を立てるために立ち退きになり、現在工事が行われているが、当時の建物は神田須田町から岩本町にいたる靖国通りの、国電の山手線・京浜東北線のガードをくぐったすぐ脇に建っていた。
道場のある二階には中華そば屋の店の中を通って上がらなければならなかった。そばをすすっている客のあいだを、いささか肩身の狭い思いをしながら階段を登っていくと、三十人は入れるくらいの、ガランとした畳敷きの都塵があった。
その頃、教祖様はまだ建設会社に勤めていて、会社が終わると、カッターシャツにだぷだぶのズボンという恰好で、夕方から「多楽福」の二階にやってきては「手かざし」の技を披露したり、「真光」の論理を講義して、集まった人びとに聞かせていた。
多田建設の運転手だった佐々木朝則は岡田光玉に誘われて、何度かこの「道場」を訪れたが、その時、こんな光景を目撃したことがある。
二十人を超える人びとが座って、光玉の手かざしを受けていた。その時、一人の老人が小水を垂れ流した。ただでさえ、中華料理のニンニクやニラの臭いのたちこめている部屋に、小水の臭いが加わって、異様な雰囲気をかもし出した。顔をしかめる人たち。だが、教祖様は意に介する様子もなく、老人に向かって、こう言った。
「いま、あなたの身体の中にたまっていた毒が体内から流れ出しているのです。そのまま、放っておきなさい」
この時、手かざしを受けていた者の中に、立川市の大森新治郎がいた。その老人のすぐそばに座っていた大森は、最初、そのことに気づかなかった。靴下とズボンのおしりの辺りが生温かくなってくる。自分が小水を漏らしたのかと、調べてみたが、そうではなさそうだ。岡田光玉の声でやっと、その意味が飲み込めたというのである。
「真光」の教勢が伸び始めたのは立川市に道場が出来てからだと、教団の資料はその歴史を語っている。
立川に初めて「真光」を伝えたのは大森新治郎であった。大森は立川基地の運転手だった。昭和三十四、五年といえば、日本中を巻き込んだかに見えた六〇年安保で揺れていた頃。米軍基地がまだ、幅をきかせていた時代である。
大森が何故、「真光」に関心を抱くようになったのか、故人となった今では心中を尋ねることは出来ない。妻のひでによると、とりたてて何処を患っていると言うわけでもなかったのに、知人から聞いて、岡田光玉の話を聞きに神田まで出かけて行ったというのである。
浅草で生まれ育ったという妻のひでは、伝法な口調でこう語っている。
「あたしゃ、連れ合いに言ったんですよ。まあ、悪いことをしに行くわけじゃあないから、反対はしませんが、あまり変なことを言い歩くと、近所の人に頭がおかしくなったんじゃないかって言われるから、ほどほどにしといてね、って。そしたら、あなた、行ってすぐ“御み霊”もらって帰って来ちゃった」
つまり、信徒になったということである。
新治郎はひでに、「お前も入れ」と言ったという。
新治郎が「入れ」と言った気持ちは、「真光」によって病を癒された今になってみればよく判る、とひでは言う。

ひではひどい喘息持ちで、発作が始まると息が止まりそうになる苦しみを何年もの長い間続けていた。その上、心臓肥大。よくあるケースだが、医者を転々としても治らず、見放された状態にあったのである。
夫の粘り強い説得に負け、ひでは「騙されたつもりで」、手かざしと研修を受けに、夫と共に、岡田光玉を訪れた。須田町の道場である。
「あなたは随分、身体に貯金しましたねえ」
ひでの顔を一目見るなり、光玉はそう言ったという。随分と医者や薬にお金をかけたようですねえ、と言ったのである。後で思えば、図星を指したこの一言が利いていた。
三日間の研修を終えて、ひでは「御み霊」を受けた。信徒になった印であるが、それでも頑固なひでは全く信じていなかった。夫の執拗な説得に従ったまでだと、思っていた。ちょうどその日、病持ちのひでは歯が痛く、右頬が大きくはれあがるくらい具合が悪かった。立川への帰り道、どうせ嘘に決まっているとは思いつつ、「試してやるか」という気持ちで、そっと右手の掌をかざすように頬に当てていた。すると、立川駅に電車が到着する頃になると、歯の痛みが止まり、全くなかった食欲が出てきた。駅前のそば屋のところまで来ると、むしょうにうどんが食べたくなり、けろりと平らげた。ひではそれまで、嫌いで、うどんというものを食べたことがなかったのだそうである。
頑固なひではそれでも、ただの偶然にすぎないと思おうとした。しかし、偶然にしても、長い間病気に苦しんでいた者が、一つの苦しみから逃れられたという魅力には抗(さから)い難い。彼女は、本当の偶然だったのかどうか試してみることにし、また、手かざしを受けに行った。こうして、回を重ねるうち、医者からも見放されていた重い喘息や心臓肥大が嘘のよう無くなり、七十五歳になった今日も矍鑠(かくしゃく)として「真光」の手伝いに励んでいる。
「本当に頑固でしたから、神様には随分と失礼をしました」
ひでは苦笑しながら、語っている。
こうなると、頑固だっただけに彼女は強力な説得者に変貌する。
「ねえ、ねえ、あなた、あたしが治してあげるわよ」
ひでは誰かれとなく、病気や悩みを持った人たちを捜し出しては、手かざしをやって回った。
「これがまた、面白いように治るんです」
信徒はまたたく間に増えていった。
大森夫婦の家には自然、そういう人たちが集まるようになり、初代の立川道場となった。「真光」が神田須田町以外で持った初めての道場である。
大森夫婦の後を継いで立川道場長となった岡本洋明の場合はさらに徹底していた。
岡本は立川で不動産、金融、ボーリング場などを手広く営んで、個人経営ながら相当の事業と資産を有していた。
彼が「真光」の強力な信徒となったのも、知人の勧めで行ってみた結果、奇蹟が起こったからである。「病気のデパートみたいだった」という彼が信じられないような健康体になり、子供に恵まれないと悩んでいた妻の富美子も八人の子沢山になったからだという。
奇蹟の起こる詳しい経緯は割愛する。
しかし、その結果、岡本一家は岡田光玉に心酔し、ほとんど全財産を投じるほど、「真光」に没入するのである。
夫の他界した岡本の家には、神田須田町の中華そば展の二階に飾られていた、光玉の筆になる「真光」の由緒ある掛け軸や、光玉の書いた書の額、光玉の写真、かつて光玉がそれを着て説教をして回っていたシャツや洋服に至るまで、家宝として大切に飾られ、仕舞われている。「あなたたちのお蔭で、真光は広がることが出来た」
光玉はそういって、記念すぺき品の数々を岡本一家に与えたのだという。
妻の富美子は遠慮がちに笑って答えなかったが、人々の話では、まだ経済的に苦しかった教祖・岡田光玉を初期の時代に支えたのは岡本だったという。
大学出のサラリーマンの初任給がまだ一万円あるかなしという昭和三十四、五年頃、岡本は月々数十万円を奉納していたようだし、教団の幹部たちも岡本の会社の社員ということにして、給料を払っていたそうである。教団が総本山を建立するときの奉納金などをあわせると、岡本家が教団に奉納した金額の総計は二億円を下るまいといわれている。
岡本は初期の頃、教団の経営基盤を確立する必要があるから、といって、自分の経営していたボーリング場を教団に寄付してしまった。いまでも「真光」という宗教団体がボーリング場を経営するという珍妙な状態が続いているのは、そのためである。
「だって、沢山のいい子供たちに恵まれて、健康に、こうやってどうにか過ごさせていただいているのも、救い主様のお蔭ですもの」
妻の冨美子はおだやかに微笑むだけである。光玉に命名してもらった長男がストレートで東大に合格できたのも、救い主棟の庇護があったからではないか、とさえ言いたげであった。

岡本や大森たち、膝を交えて教えを受けた初期の信徒たちにとっても、岡田光玉はおおらかで人なつっこく、きさくで温かみのある教祖であったという。
「私たちの手には負えなくて困っています」
SOSの電話を掛けると、光玉は、
「私が行ってあげるから、待っていなさい」
と言って、下馬の自宅から、すぐ、馳せ参じてくれた。立川市内を、教祖様は時には自転車に乗って、困っている人たちの所へ駆けつけることも一再ではなかったという。
そうした光玉の懸命な姿が信徒たちの心を捉えた。岡本もそうした教祖様の姿を見て、当時はまだ数が少なかった自家用の外車を、教祖様の専用車として提供したのである。
「神の火は神田須田町で巣立ち、立川で立ち上がり、八王子で四方八方に広がった」
と、光玉は後に語っているが、「真光」は立川の道場を起点として三十五年頃から急速に拡大を始めたのである。
「真光」が急速に拡大する秘密の一つはその方法論にあるといっていいだろう。
三日間の研修を受けてペンダント様の「御み霊」を拝受すると、その人は神組手となり、病気で苦しんでいる人たちにたいして手かざしをしてあげることが出来る。そこで、病が癒され、この方法を信じた者は三日間の研修を受けて、神組手となる・・・・・・こうして、信徒はネズミ算式に増えていくことになる。問題は手かざしで病気が本当に治るか否かにあるのはいうまでもないことなのだが、信徒たちが増え、広大な敷地の本山と巨大な殿堂が建立されているという現実は何を物語っているのだろう。
この教団の特徴のもう一つは、教義とか戒律といったものに全くといっていいほど、うるさくないことであろう。
「とにかく、来てみなさい。治ったら、信じればいい。何故、治ったかの理屈を教えて差し上げましょう」といった感じなのである。
だから、戒律や教義の厳しい教団の信徒たちに比べると、信仰者にありがちな気負いや押しつけといったものがかなり少ないように思われる。
こうして、「真光」の教勢は拡大していった。信徒は増え、組織は拡大し、社会的地位のある人々にも広まっていった。
神組手の中には歌舞伎役者の片岡仁左衛門、歌手の渡辺はま子、詩人の加藤郁乎(いくや)、旧帝国大学系大学の医学部教授、オーストラリアの大学教授、フランスの軍幹部などの有名人、著名人、知識人たちが加わった。大祭などの行事には福田赳夫元総理や藤波孝生現自民党国会対策委員長や海外からの外交団が列席するようになった。へラルド・トリビユーンやル・モンドが岡田光玉とその教団について詳しい特集を組んだこともある。
片岡仁左衛門は岡田光玉について、
「四十三年に神組手にさせていただいて以来、公私共に親しくお付き合いさせていただき、我当、秀太郎、孝夫の息子たちも神組手にさせていただいております。四十九年に神幽(かみさ)られた(他界した)時にも、駆けつけたのは私が一番乗りでした」
と語り、仁左衛門の長女・高木与喜子も、
「父は目が不自由になっているのに、舞台に上がると小さな煙草盆に灰を落とす場合でも、花道で舞台ぎりぎりに足を踏みだす場合でも、決して誤ることがないのは、神のご加護のお蔭と感謝致しております」と語っている。
与喜子はこの教団の幹部で、東京・上用賀小道場長である。
光玉については多くの人たちが「大きな人だった」という印象を抱いている。包容力があったという意味もあるが、同時に、大変身体が大きく感じられたというのである。
「凄い熱気を感じさせる人だった」という人たちも多い。詩人の加藤郁乎はこう語っている。
「湯川秀樹先生が『あの人の傍にいると暑くなる』と言っておられた。福田赳夫元総理も同じことを言っておられました。私もその経験をしています」
岡田光玉の額には大きな瘤様のものがあった。写真を見てもはっきりと映っている。
「白豪(びゃくごう)」といって釈迦の額にあるのと同じようなものであった。不思議なことに、立教以前の写真にはどれを見ても白豪がない。そして死の直前にそれは消えている。神の許へみまかる準備が出来たからだ、と言う人もいれば、いや、晩年の光玉は金や宝石を身に付けて奢りだかぷっていたから神のお叱りを受けたのだと言う人もいるが、真相は判らない。


前出の佐々木朝則はこんな思い出を語る。
「昭和四十九年六月のことでした。多田建設の社長が石の塔を寄贈することになって、私は、当時先生が住んでおられた熱海へそれを据え付けにお邪魔をした。どうもお身体がすぐれないように見えたので、『先生、大丈夫ですか』と申し上げた。先生は『大丈夫だよ』と言っておられたんですが・・・・・・」
神の啓示が突然襲ったように、死もまた光玉に突然訪れた。
「北海道へ行かれることになっていたんですがねえ。気持ちが悪いといって休まれて、そのままでした」
伊豆・本山の第二代教え主・関口栄が語る教祖・岡田光玉の最期である。佐々木朝則が会った直後のことであった。
岡田光玉の死後、これもよくあるように、教団は二つに分かれた。伊豆に本拠を持つ「世界真光文明教団」は幹部だった関口栄が第二代教え主として継承し、高山の「真光」教団は光玉の養女・岡田恵珠が継承して、ともに急速な勢いで発展を続けている。

【解説】
「教祖誕生」は、新潮45に連載されたドキュメンタリー小説で、加筆修正のうえ、1987年に新潮社から単行本が、1994年に講談社から文庫本が出版されたが、現在はいずれも絶版となっている。単行本と文庫本はネット古書店で購入できるし、公立図書館で閲覧も可能である。新潮45と単行本の間には、大幅な書き変えはないが、一部削除された箇所をお見せする。
新潮45 1985年5月号(4巻5号) 112-121頁
「教祖誕生」―陸軍中佐岡田良一を襲った「真光」の啓示― 上之郷利昭著
(P116) しかし家庭での光玉は大変激しかったと娘の一人はこう語っている。
「口をきくにも襖(ふすま)の外からおうかがいを立て許しが出たら、襖の開閉(あけたて)をきちんとした上で、用件を申し上げるという形式を踏まなくてはなりませんでした」




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