暴かれた真光日本語版
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2004年01月26日(月) |
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「教祖誕生」 上之郷利昭著 新潮社 1987
7-26頁 陸軍中佐岡田良一を襲った「真光」の啓示
伊豆・修善寺から車で二十分ほど山中に入ると、忽然と大殿堂が聳(そぴ)え立っているのが見えてくる。高さ六十メートル、四周六百メートル。 宗教法人「世界真光文明教団」の大本殿である。 玉砂利を敷き詰めた前庭に立つと、眼下に修善寺の町を配して、雪を頂いた富士山を眺望することが出来る。その敷地約三百三十万平方メートル。辺りの山をほとんどそっくり、この教団は買い取ったのである。
飛騨・高山。 ここにも、昭和五十九年十一月三日、天を突くばかりの大殿堂が姿を現した。高さ五十メートル、四周五百メートル。総工費三百億円。 宗教法人「真光」の世界総本山である。 三階建て吹き抜けの大ホールには世界有数のパイプオルガンが聳え、瀟洒(しようしゃ)な国際会議場は六カ国語の同時通訳装置を備えている。 噴水の湧き出る、総本山の小高い庭に出ると、一面雪に覆われた日本アルプスの連山を背景に、小京都と呼ばれる高山の街並みが静かなたたずまいをとどめているのを眺めることが出来る。
この二つの教団は発祥を同じくする。 教祖は岡田光玉。 光玉が一教を立て、布教に乗り出したのが昭和三十四年。わずか四半世紀の間にこれだけ巨大な殿堂、広大な土地と、国内は勿論、ヨーロッパ、アメリカ、アフリカ、南米、オーストラリアなど世界各地に、両教団合わせて五十万人になんなんとする信徒を擁するに至った。 岡田光玉が案出した「真光」教団の特徴は「手かざし」である。 教祖、あるいはその後継者から「御み霊」と呼ばれるペンダント様の信仰の印を与えられた「神組手」と呼ばれる信徒が、病に苦しむ者、心に悩みを持つ者に向かって、主として右手の掌を相手に向け、手をかざす。この、一見まことに単純に見える所作によって、病は去り、心の悩みは癒されるというのである。 にわかには信じ難い、と信徒以外の人びとが思うのは当然である。今日、神組手になっている人びとに尋ねてみても、彼らのほとんどすべてが、最初は、奇蹟としかいいようのない手かざしの効用を信じなかった。だが、その彼らが、自分自身が病を癒されるという体験を通して手かざしの効用を信じるようになり、今度は神組手として、病にさいなまれながらまだ信じようとしない人びとを説得し、手かざしによって救おうとしている。 こうした人たちが日本ばかりでなく、ヨーロッパ、南北アメリカ、アフリカへと広がり、その数五十万人に達しょうとしている。そして、強要されることなく感謝に満ちて彼らが奉納したはずの寄金によって巨大な殿堂が建立され、視察の日には、明るい表情の神組手たちが自分でお金を出して、バスを連ね、飛行機に乗って、遠くはパリやニューヨークから馳せ参じて来る。 この事実は、奇蹟を信じない者でも認めないわけにはいかない。 「真光」の技には、岡田光玉が編みだしたそれなりの、論理ともいうべきものが存在する。 森羅万象は神の配剤によって成り立ち、動いている。病や不幸は何らかの理由によってその配剤に反したことによって起こるのであるから、神が出される「真光」を、かざした手から受けることによってあやまちが正され、病や不孝から救出される――。 わかりやすく言えば、これが「真光」の技を支える論理である。 信じる者の側から言えば、これは「岡田光玉が編みだした論理」ではない。神の道を究めた「救い主」岡田光玉が神と出会い、神から授けられた真理なのである。
岡田光玉は明治三十四年二月二十七日、岡田稲三郎、登実の長男として、東京・青山に生まれた。俗名は良一であった。上に三人の姉、下に三人の妹があり、良一はその真ん中にはさまれる形で、ただ一人の男児として生まれた。 岡田の家系は、名家と呼んでもさしつかえはないだろう。 光玉の祖父は、徳川御三家の一つ、紀州家の学問を指導する立場にあったという。父の稲三郎も祖父の跡を継いだが、維新後、陸軍に入った。ドイツに留学を命ぜられ、三年間兵学を学んだというから嘱望された軍人だったということだろう。父は陸軍主計総監にまでなったが、少将を最後に五十四歳で他界した。 このとき、光玉の家には勅使が遣わされているというから、相当高い家柄だったと見ることが出来よう。 光玉は父の勧めに従って大正九年、陸軍士官学校に入り、軍人への道を選んだ。同期生の一人として秩父宮殿下に親しく接したというこの名門の子弟は大正十一年、陸士を卒業と同時に宮中護衛に当たる近衛師団の歩兵第一連隊に配属され、連隊旗手を命ぜられた。当時の連隊長は、後の陸軍大将・真崎甚三郎であったという。 昭和六年、近衛師団歩兵第一連隊第六中隊長に任じられた光玉は、今上陛下およぴ皇太子殿下の行事のお供をする、供奉(ぐぷ)将校を拝命している。 昭和十二年、大本営第一鉄道輸送司令部課長。実戦においては、日支事変で中国へ、第二次大戦では仏領印度支那、今日のベトナムへ派遣され、戦線に加わった。 しかし、第二次大戦では仏印で病を得て内地に送還された。昭和十六年の暮、開戦直後のことである。昭和十三年に催された馬術の御前試合で転倒、脊椎を骨折したのが原因で胸推力リエスにかかり、腎職結石も併発して、重い病を得たのだった。 「退院しても、あと三年の命だと医師から言われた」 と、光玉は回想している。彼はやむなく現役を引退して、予備役に編入された。 宮中護衛に当たる近衛士官として軍人生活の輝かしいスタートを切ったエリートが、四十歳の働き盛り、陸軍中佐という重責にあって、しかも、これからが軍人の活躍の場という開戦の直後に死を予告される重病に罹(かか)り、現役を引退。人生の大きな転機であった。 医学に見放され、死と直面した人びとのほとんどがそうであるように、光玉の心には神、運命、信仰といった概念が色濃く影を落とし始めている。 「人間というこの不可思議な存在を創造することが出来たのは、医学などという人知をはるかに超えた何者かであったはずだ。それが『神』というものではないか、と私は思った。私は一切の薬を捨て、神に祈った」 教祖になってからの言葉という前提は考えなくてはならないかも知れないが、光玉は後年、当時を握り返ってこう述懐している。 彼は死ななかった。のみならず、健康になった。天皇の武官として一級の治療を受けながら「三年の命」という宣告を医師から受けていたということを考えると、「私は神のみ心によって救われた」という方向に彼の心が動いていったとしても、それほど不自然とは言えないのかも知れない。
報国の心を抱きながら、途半ばにして病に倒れ、死を宣告された光玉は「余命を国のために」と、父から受け継いだ財産を注ぎ込んで、航空機製造会社を名古屋に興したのをはじめ、製塩、炭鉱、木材など軍需関連企業の経営に挺身した。各分野を網羅した会社の名称は何故か「平和産業」であった。 だが、敗戦直前の昭和二十年、彼の企業は空襲を受け、灰燼(かいじん)に帰した。そして、敗戦と戦争協カ者としての追放。戦後は零(ゼロ)からの出発であった。彼は自殺を思ったこともあったという。 敗戦直後の混乱期、光玉がどういう生活をしていたかはつまびらかではない。彼の家族さえも夫であり父である彼の行動を充分把捉していたとは言えないような状態であったらしい。 事業としては、神奈川県の二宮あたりで、戦前手がけたものの一つである製塩を細々と営んでいたようである。一人光玉に限らず、この時期はほとんどの人が、食べられるならば色んな事に手をだして失敗をしたり、運のいい人は成金になったり、混沌とした生活をしていた。家族が、夫や父が何をしているか充分に把握出来ていない状態だったとしても、この時期なら、そう特異な例ではなかったような気がする。 しかし、光玉はこの頃から既に、宗教のほうには相当、身を入れていたようである。 「神道、仏教あらゆるところを模索して歩いた」と、彼は後年、親しい人たちに漏らしている。 その全てが詳細に判っているわけではない。しかし、彼の家族の一人はこう語っている。 「ある宗教の教祖が書いたという掛け軸を、当時のお金で何万円も出して買ってきて、『お前たちもこれを拝め』と、こう言うんですねえ。食べる物も満足に無いのに、わずかに残っていた家財は次々宗教に注ぎ込んでしまう。恨めしい思いをしました」 はっきりとわかっているものでは、最初が生長の家、その次がメシア教。大本教のことも話していたことがあるという。メシア教では相当のところまで進んだらしい。埼玉県の朝霞市に住んで、自宅を道場にし、かなりの信者たちが彼の家に集まって来ていた。 メシア教の活動を何故やめたのかは、はっきりしない。しかし、光玉は昭和二十年代の終わりに、今度は俗世界の営みである建設会社の幹部として姿を現す。 会社の名前は「多田建設」。 本社を東京都江東区大島に持ち、現在は大阪、仙台、札幌、広島、四国、福岡など各地に十二の支店、営業所と、七百四名の従業員を擁し、資本金十億円、総売上高五百六十億円を上回る中堅企業である。 「真光」教団の資料によると、岡田光玉は昭和二十八年、多田建設の重役となり、同時に「光開発」という会社を設立した、となっている。 とりたてて言うほどのことではないのかも知れないのだが、多田建設で光玉と親しく接した人びとの記憶では、入社はそれより一年遅く二十九年で、役職は「顧問」だったような気がする、と言っている。三十年以上も前のことについてなら、この程度の誤差はあっても不思議はないのかも知れない。 しかし、いずれにしても、多田建設の発展にとって岡田光玉が極めて重要な役割を果たしたことは間違いがない。 経緯は不明であるが、下請のペンキ屋のおやじの紹介で光玉が顧問として入った当時、多田建設は従業員五十人ていどの、下町の土建会社にすぎなかった。 「なにしろ、龍道先生が取ってきてくれた仕事が、我が社始まって以来はじめて鉄筋コンクリートを扱う工事だというので、その仕事に取り掛かる時には全員が集まって、”出陣式”のようなのを盛大にやったのを憶えていますよ」 現在、総務部長を務めている池田修の記憶である。 岡田光玉は多田建設で自らを「岡田龍道」と名乗っていたと、池田らは回想する。五十人そこそこの社員たちは新しく入ってきた軍人上がりの顧問のことを親しみと尊敬を込めて、「龍道さん」とか、「先生」と呼んでいたそうである。
岡田が加わってから、多田建設には自衛隊関係や住宅公団などの大口受注が目立って増え始めた。軍隊時代の人脈が生きているのだろうかと、多田建設の人たちは考えもしたが、それにしては昔の軍人仲間が会社を訪ねて来ることもなかったし、岡田からその種のはなしを聞いたこともなかった。仕事に行く時には、岡田は一人で出かけて行き、自衛隊や、住宅公団の大規模な工事をさり気なく取って来ては、下町の土建会社の従業員たちを驚かせ、喜ばせていた。 伊豆・本山の崇教局長だった田中清英は、新年に多田建設の社長が岡田光玉の自宅へ年賀の挨拶に訪れたのを見て、 「社長さんのほうから挨拶にみえるのだから、会社でも大変偉い方なんだ」 と感じたことがあるという。 「先生が入られてから、会社の雰囲気が明るくなりました」と、前出の池田修は語っている。 それは勿論、岡田によって実質的に社業が発展を始めたからであるが、岡田の人柄もまた、そうした雰囲気を醸しだす上で少なからぬ影響を持っていた。 今は、親和寮という多田建設の社員寮の寮監をしている佐々木朝則は、当時、お付きの運転手として岡田光玉に身近に接していたが、懐かしそうにこう語っている。 「自衛隊の北海道方面総監をしているという軍隊時代の親友の方が東京に来られるというので、先生のお供をして羽田までお迎えに行ったときのことでした。総監とお茶を飲まれる時、先生は『佐々木君も一緒に来いよ』と言ってくださったんです。先生はいつもそうやって、私たち下の者のことでも、気にかけていて下さいました」 おおらかで、人なつっこくて、思いやりのある、渇かい人、偉ぶらない人、面倒見のよい人、という印象を多田建設の人たちは抱いている。 佐々木はこうも話している。 「千葉県・幕張の海岸でよしず張りの店をだしている漁師が突然、『戦時中はお世話になりました』と懐かしそうに飛び出して来て、びっくりしたことがあります。意外な所でそういう場面に出会うことがよくありました」 多田建設では、岡田は宗教に強い関心を抱いているという気配を全く感じさせなかったようである。 「多田建設をお辞めになってから教団を興されたと聞いて、みんな『エッ』と驚いたぐらいでした」 と、池田は語っている。しかし、運転手として日常を共にしていた佐々木には、光玉のもう一つの顔が見え隠れしていた。 「江ノ島へ行った帰りのことでした。朝から胃の痛みを感じていたので、そのことを先生に申し上げると、『よし、私が治してあげるよ』と言われて、帰路ずっと、後ろの座席で私のほうへ掌を向けて手をかざしておられた。後から考えれば、あれが“真光”の技だったわけですが、あまり長く手を上げておられるので、『先生、お疲れになるから、もういいですよ』と申し上げたことがあるんです」 佐々木はこう言ってから、 「ただし、胃のほうに効果があったとは、あまり思えませんでしたがネ」と付け加えた。 彼は「いまでも、先生が亡くなったとは信じられない」というほど岡田光玉の人柄を尊敬してはいたが、しかし、岡田から何度か誘われながら信徒には遂にならなかったという。 岡田光玉は多田建設に在籍していたころ、世田谷区の下馬に住んでいた。佐々木は岡田をその自宅までよく送って行ったし、自宅に招かれたこともよくあった。佐々木は岡田の自宅について、普通の人の家とは異なった異様な雰囲気を感じていた。 「建物は普通の仕舞屋(しもたや)で、外観には変わったところはありませんでした。しかし、中に入ると、廊下といわず階段といわず、家中に赤い級毯(じゅうたん)が敷き詰めてあり、何か神様のようなものがお祀りしてあった。今にして思えば、ああいうことをやる人はやっぱりどこか違っていたなあ、ということですねえ」
「天の時到れるなり。 起て、光玉と名のれ。 手をかざせ。 厳しき世となるべし」
多くの教祖がそうであるように、岡田光玉は忽然と神の啓示を受けたのだという。 昭和三十四年二月二十七日午前五時。 光玉、五十八歳のときであった。 光玉自身が語っているところによれば、彼はそれから遡ること五日前から原因不明の高熱を発し、人事不省に陥ったままこんこんと眠り続けた。そして、五日日の未明五時、一天にわかにかき曇って雷鳴轟き、閃光走る中で、姿を現した神は、彼に向かって救いの道に起ち上がるべく神命を与えたのだという。 こうして、若き日の近衛師団連隊旗手、元陸軍中佐、岡田良一は教祖への道を歩み始めるのである。 岡田光玉が神を求めて摸索を続けてきたことは既に述べた。手かざしをするとそこから神の「真光」が出るというのは、神道に古くから伝えられる教えである。古神道を深く研究していたらしい光玉はその頃既に、手かざしによって人びとを救うという体験を何度もしていたようである。 「自分は六つ乳房のあるご婦人を手かざしによって正常にして差し上げたことがある。このとき私は、自分が人を救うことの出来る人間であるという確信をもった。神の啓示が下ったのはその直後である」 光玉は後年、親しい者にそう語っている。それまでの長い間、神を求めて模索を続けてきた岡田光玉に、神はこの日突然、教祖として起つことを許したということになる。 実は、「三十四年二月二十七日」という数字には大変な意味が込められている。それは、昭和と明治を入れ替えれば、岡田光玉の誕生日に当たるからである。 明治三十四年二月二十七日にこの世に生を享けた「神のみ使い」岡田光玉は、奇しくも昭和三十四年二月二十七日に、世界の真の救世主として起つべく神から啓示を与えられた、というのである。 事実とすれば、この偶然だけでもすでに、「神がかり」である。さらに、光玉の誕生に関しても、教団の教えはこう伝えている。 「明治三十四年二月二十七日、未明。母堂は左足の親指を白金色の鼠に噛まれる夢を見た。指の痛さに目が覚めると、間もなく、師がお生まれになった。 白金色の鼠は出雲大社のお遣いとされているが、師の母堂はかねてから出雲大社への信仰篤く、男児誕生を熱心に祈念されていたのである。 母堂の左足の親指は、七十四歳で亡くなられるまで痛みがやまなかった」 神の存在や配剤を信じる人びとからこのような話を開かされると、信じていない人びとは抵抗を感じる。あるいは、頭から信用しょうとはしないのが通例である。 しかし、これに似た話は、岡田光玉の娘の一人が祖母、つまり光玉の母から、光玉が教祖となるはるか以前に直接、聞かされている。しかも、この娘は教祖を父に持ちながら、神がかったことが嫌いで、初老を迎えた今日まで信仰とは無縁の生活を送ってきているのだ。 彼女は、「他人様に笑われるようなお許なんですが」と斬りながら、こう語る。 「そういえば、祖母から奇妙な話を聞かされたことがあります。 祖母がいいますには、ですね、金のタライで産湯をつかっている夢を見た時に、父が生まれたそうでして、『この子は神の子だから、大切に育てなくてはいけない』ということで、父は小さい頃は随分と大事に育てられたように聞いております」
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