暴かれた真光日本語版
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2004年01月22日(木) |
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「新興宗教被害と悩み解決法」 田中一京著 青年書館 87.11
105-110頁 <神や霊の存在を絶対視すぎて自我や理性を失っている>
信者心理の特徴として、神や神の意思を伝える教祖、あるいは教団の教えには絶対に逆らえない面がある。しかし、だからといって自己の意思をすべてねじ曲げてまで従順になる必要はないのだが、現実を見てみると宗教に洗脳され盲信している信者は理性を失い、自己の信奉する宗教教団の意のままに操られ、動かされているといっても過言ではない。 信者が信仰に没頭し、宗教精神を享受しようとする姿勢そのものは決して間違った行為でも、他からとやかくいわれる筋合いのものでもないが、ただ、神や教祖教主の教えを絶対視するあまり、正常な考え方ができなくなってくると、少々事情は違ってくる。 そこで、理性を失っている信者のどこに危険性が内在しているのか、病気を治したいばかりに教団の言葉を信用し、宗教に洗脳されている信者の宗教意識を見てみることにしよう。
『私はS界M光B明教団の信者です。私が入信したきっかけは、ある日突然、おなかが千切れるのではないかと思うほどの激痛に襲われ、救急車で病院へ運ばれました。そのとき医者の診断は「上部尿路結石」ということでした。 私はすぐ入院させられ、病院で出してくれる薬を飲み治療を続けていました。そんなとき「病気というのは、薬を使うと一時的に症状を押えることはできるかもしれないけれど、それは治ったと錯覚しているだけでほんとうには治っていない。病気はもともと霊魂と肉体のバランスが崩れたときに起きるのだから、浄霊しなければ完全に治ることはない」と他の信者から教えてもらったのです。 私は手術をしなければ治らないと思っていました。そんなとき手術をしなくても“M光の業”で痛みを止め、病気が治せると聞かされすぐそのM光の業を受けたのです。 病院のベッドの上で信者の人達から“手かざし“を毎日受けました。そして私も「主の大神様」に、痛みを和らげてください、手術せずに病気を治して下さいと真剣に頼みました。 そうするうちにだんだん痛みもとれてきたような気がしてきたので薬を飲むのをやめ、親の反対を押し切って退院し、通院するかわりに毎日教会へ通いました。 今もときどき痛みはありますが、主の大神様が御浄霊して下さり、必ず病気は治るといってくれていますからその言葉を信じています……』
と、千葉県松戸市に住む元店員のSさん(22歳)は語る。
特定の神に仕え、宗教の教えを受け、それを絶対と思い込んでいる信者に対しては、なるほど神の啓示や教祖の言葉は絶対であり侵すことのできない神聖なものであるといえよう。 だが、洗脳された信者以外のものから見ると神や教祖の言葉は決して絶対ではあり得ないし、当然のことながら、それほど神の絶対性というものは信用していない。なぜなら、この世の中に唯一つ絶対神といわれる神々がどれほど多く存在しているか、また、唯一つ絶対神と崇める神々の力というものがどれほどあやふやなものであるか、信者自身が少し冷静になって宗教の現実を見ればわかることである。 ではもう一例「S教M光」に洗脳されている信者の話を紹介して、どこに問題があるのかを考えてみたい。
『御み霊をいただき神組手(信奉者)になってM光の業を覚えれば、誰でも病気を治すことができる。ただ、そのためには初級M光研修を毎月1回、3日間だけ受けなければならない。その講習を受けて神組手(信奉者)となり、陽光子(信者)となれば、手の平からM光を発することができる。 私達が“施真”(手かざし)すれば、不思議な現象が起きてくる。たとえば急に下痢をしたり熱を出したりするが、これはクリーニング現象(肉体の浄化作用)といって、人間の体の中に蓄積された毒素が“M光の業”によって、外へ排出されるために起きる現象だからまったく心配ない。 それより、施真によって精神的にも肉体的にも健康になるんだから、こんなありがたいことはない。教え主さまの力というのはそれほどすごい。どんな病気でも治すのだから……。 病気で苦しみながら病院通いをして、なおかつ薬づけにされている未組手(非信者)の人達のことを思うと、ほんとうに可哀想だ。 だから私達は教え主さまの御教示を生活の糧、信仰の糧として、できるだけ多くの未組手の人達に“真ぼえ”(声をかけ勧誘すること)したいと思っている。 S教M光の不思議を知らない人達は、こうした話をしても信じようとしないばかりか「施真だけで病気が治るはずはない」と疑ってかかる。しかし、誰が何といっても実際に治るから不思議なんだ。 病院で医者に診てもらうより“M光の業”の方がよほど信用できる。こんなありがたい教えを否定したり、知らなかったりする人達はほんとうに不幸だと思うね。 実際に、私自身がM光の業で胃にできた悪性の腫瘍を治してもらい、その奇跡を体験しているんだから、これほど確かな証拠はないだろう……』
と、東京都世田谷区に住む自由業の後藤さん(41歳)は説明する。
この事例は、現信者の宗教姿勢、および洗脳された状態や考え方を如実に示しているものであるが、もちろんこれとは反対に、病気が治るからと入信を勧められ、M光の業を受けたが病気は治らなかったと不満を漏らし、騙されたと訴えてくる信者が多いことも見逃してはならない。 ここで例示した二人の信者の考え方は、猛進した信者の特徴を端的に現しているものであるが、神や霊というものをあまりにも絶対視しすぎて、自我意識を失っているところに大きな問題を抱えており、近代的医療行為を否定するといった危険な考え方を持っていることがはっきりわかるであろうし、その部分がもっとも危惧されるところである。 われわれ人間社会の中における宗教の存在価値というものは、諸々の悩みを持つ者に対し精神的に導き、その苦労を和らげ取り除きながら立ち直らせるところに宗教の価値観、あるいは本来の使命が存在するはずだ。 つまり、病気治しに限定して考えると、近代医療の実績を認めたうえで、その医療行為と並行しながら、精神面から患者の意気を高揚し貢献していくというのが宗教行為の本筋である。 言い換えるならば、その宗教行為を信者自身が良識と節操をもって世のため人のために役立たせるのであれば、信仰を治療の一分野として利用することは何ら問題はないし、逆に治療効果も十分期待できると思う。 だが、頭から近代医療を否定する姿勢、そこに問題があるのだ。つまり、宗教上の教えを絶対視するあまり、盲信的になった信者が医療は害悪といった考え方を他に押し付けたり、医療の社会における貢献度を認めようとせず、ただやみくもに否定するという態度を取り続けるならば、それは完全に宗教の使命や役割を履き違えていると考えなければならない。そこのところを宗教に洗脳された信者はわからないから、いろいろな社会問題を引き起こすのである。 こうみてくると、神を絶対と信じる理性を失った信者の考え方や行動が、いかに危険で偏った考えに陥っているか、あるいは洗脳された信者の偏向した考え方が社会的に受け入れられないものであるか、つまり、自己の信奉する神の教えだけが正しいと思い込んでいる信者は、自我意識を失うことによって、同じ宗教の教えを受ける者以外の意見には耳を傾けなくなり、ますます気持を閉鎖させてしまう。 そこに反社会的、反人道的な行為を平然と行う元凶が生まれてくる要因があるように思えてならない。
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