暴かれた真光日本語版
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2003年11月27日(木) 036 pseudoscience

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危険な歴史書「古史古伝」 別冊歴史読本 54号新人物往来社 2000.10
――“偽書”と“超古代史”の妖しい魔力に迫る!

P102-117 「古史古伝」は新興宗教にどのように取り込まれたか―オウム事件まで―
日高恒太郎(作家)

(前略)
 私は見聞きしたなかで、「日本最古の史書」といわれる古史古伝という一群の史料が宗教の側にどのように取り込まれていたかについて記憶のままに綴つてみることにしよう。

 換骨奪胎は宗教の得音技である。古今東西の歴史、哲学、文学書などからエッセンスや逸話を引き抜き、それをかき混ぜ厚化粧した新しい物語や逸話が堂々とまかり通っているし、既成宗教の教典が矮小化されそのまま使われることも多い。

 古史古伝はいわゆる教派神道系の教団との関わりが深い。紙幅の都合もあり、私も大ざっぱに換骨奪胎してみる。「手かざし」で知られる真光を、最初に取材したのは、伊豆天城山中に総工費三百億という大神殿が完成した頃で、この伊豆の世界真光文明教団と飛騨高山の崇教真光が分裂後の正統争いを裁判で争っていた時期である。

 末端組織である道場に出向くと、二世帯分のマンションの壁をぶち抜き三十畳ほどの和室にしつらえた道場のあちらこちらで、二人一組の信者たちが対座していた。一方は両手を合わせて目をつむり、片方はその額に向かって手をかざす手かざしが繰り広げられていた。道場に案内してくれた男性に薦められるままお浄め料三千円を納めると、掛け軸を拝まされ、道士と呼ばれる二十代の美女がやってきた。

 お浄めの施術が始まった。

 顔に似合わぬ野太い声でお祈りを唱え始めた美女は、やがて手かざしをはじめた。手かざしは、通常「霊能」のある者が手のひらから出る霊波によって病気を治すことをいうようだ。しかしこの秘儀はなにもこの教団独自のものでなく、大本教の「み手代」や世界救世教の「御浄霊」にもある。

 十分、二十分と経過し正座の足がしびれ、合わせた両手がだるくなった頃、突如として「オシズマリー、オシズマリー」の声が響き渡った。それが終わりの合図らしかった。

 午後六時を過ぎ中学生、高校生、そして会社帰りのサラリーマンたちが次々に来場してきた。彼らは初級から上級までの研修を受け超能力者になる競争をしているのだと案内者が教えてくれた。研修ではこの中級者以上のものに『竹内文書』関連のハンドブックをテキストにしていた時期があった。

 起源の不確かな古代文書の中でもっとも有名な『竹内文書』を、私が最初に知った日であった。

 その後、真光の二代目教主関口栄と岡田光玉の養女岡田甲子改め岡田恵珠の二代目争いは、崇教真光という別教団を設立した岡田甲子側が敗訴したが、教勢は逆転した。崇教真光は飛騨高山に世界総本山を建立。その奥宮は高山の近くの山中、位山の山頂近くにある。

 位山は『竹内文書』では天神七代天照日大神が降臨した聖地とされている。飛騨を日玉と称し、日の神の元地という意味である。位山には天の岩戸や祭壇石などの巨石遺構が多く、近くには神々が天空浮舟で降臨したと伝えられる舟山もある。また位山の一位の木は、天皇即位の時の笏の材料として知られ、神武天皇時代から天皇に「位」を与えるという伝承があった。

 位山の天の岩戸前には、生長の家の影響を受けた五井昌久が立教した白光真宏会の平和観音もあった(現在は撤去。また本部は千葉市市川からオウム富士サティアンがあった富士市人穴に移転)。真光は岡田光玉が始めた神道系教団だが、崇教真光、世界真光文明教団、そしてス光光波世界神団などに分派した。

 岡田光玉は、岡田茂告が創始した「世界救世教」の幹部であったが、昭和三十四年に分派して真光を設立した。世界救世教からは、真光系教団のほかにも神慈秀明会、救世真数など十以上の分派が発生している。

 その岡田茂吉は元々は大本にいた。つまり救世教も真光も、みな大本の「艮の金神」の系統である。

 戦後「類似宗教」と呼ばれた宗教群のなかで突出して教勢を伸ばした世界救世教の躍進には先の超能力まがいの霊波があるのだが、それは人のみならず農作物や漁業にも効果があるとしたところが受けた。つまり、手をかざせば肥料なしで収穫は増大し、魚は獲り放題というわけだ。

 ちなみに満洲国立国当時のフィクサーであった軍人石原莞爾は、戦後、戦犯を免れ山形県酒田市に隠棲したが、『酵素普及会』を組織、無肥料多収穫を謳った宗教性を帯びた団体のなかで「こうそ(皇祖)さま」と呼ばれた。《石原元将軍より、岡田教祖のほうがずっと上手である》と当時のジャーナリスト大宅壮一に椰輸されている。

 岡田の世界救世教をはじめ、「生長の家」「三五教」「神道天行屠」「真の道」など大本の影響を受けた教派神道系の教団は無数にある。これをもって大本の艮の金神がいかに独創性にあふれたものであったかと、古神道研究者のなかに力説するものが多い。

 しかし、大本の教理が明治中期に生まれた元大工の未亡人のお筆先だけで生まれた完全無欠な独創の所産というわけにはいかない。

《三千世界一度に開く梅の花 艮の金神の世になりたぞよ・・・・(略)》(大本神諭)

 出口ナオが神がかりになり、「初発の神勅」で世の立て替え立て直しを訴えたというが、彼女を召命した「艮の金神」は、すでに『九鬼神道』の文書のなかに「宇志採羅根真(ウシトラノコンシン)」として現れている。

 つまり出雲王朝の正当性を主張しているといわれる『九鬼文書』の引き写しなのだが、研究者の中にはほかにも、天照大神の前に二十九代の天皇がいたと主張し神代の万国史とも呼ばれる『竹内文書』の影響、さらには富士高原王朝と高千穂高原王朝の対立と抗争を伝えるといわれる『宮下文書』(富士文献ともいう)の影響も見られるらしい。これらの古文書を教理の中に引き込んだのは、出口なおの長女すみの入り婿となった“一代の怪物”出口王仁三郎である。

 戦前に大本は「淫嗣邪教」として二度に渡る弾圧を受けている。オウム事件で教団は宗教弾圧と言い立てたが、大本の戦前のそれはなまぬるいものではなかった。

 最大規模の第二次大本事件(昭和十年十二月)では、京都府警だけで出動した武装警官四百三十人、教主出口王仁三郎以下九人七名の幹部信徒が検挙され、取調べを受けた者は三千人以上に達した。教団が亀岡に建設した月宮殿という神殿は二千本近いダイナマイトで爆破され、開祖出口ナオの墓はあばかれて共同墓地に移された。

 なぜこのような暴挙に近い弾圧があったのか。

 ひとつは大本にシンパシーを抱くファンのなかに高級軍人や大物右翼が多かったからだといわれる。つまり「大本が集金した資金が、右翼、軍人に流出するのを防ぐため」という目的がひとつ。

 さらに「大本の教義は大逆思想」ときめつけていることがいまひとつの理由と見る史家が多い。大本教義に取り込まれた『九鬼文曹』『竹内文書』はいずれも南朝系の伝承で、特に『九鬼文書』に見られる大国主命が登場する出雲系神話は、天孫降臨に始まる外来民族が先任者の出雲族を征服した故実を伝承したものと解釈されていた。

 「記紀」に代表される古代神話が天皇家の正統性を補完、合理化するものとみなせば、記紀以外の伝承を持ちだした大本は、国家神道の立場から「反体制勢力」と見られたのである。王仁三郎は国家権力の虎の尾を踏んだ。

 大正十一年の第一次大本教弾圧を皮切りに、国家神道の意を受けた権力が異端とされる新興宗教を次々に弾圧した。

 戦前に迫害を受けた教団としては、大本、ひとのみち(現PL教団)、創価教育学会(現創価学会)が知られているが、とくに当局は国家神道の教義と異質のものを持つ教派神道系の台頭に敏感だった。そうしたなかに昭和十一年に有罪判決を受け、係争中に終戦を迎えた教団があった。日本神話に登場する武内宿彌六十六代子孫と称した竹内巨磨を教祖とする「天津教」だ。

 いわゆる『竹内文書』は、竹内巨磨が教義形成の過程のなかでキーワードとして神代文字を持ち出し、記紀以前のこの国の姿を措いた妄想の産とする見方が定着したように見えるが、一方に『宮下文書』『九鬼文書』『上記』なども神代文字による作品とされていることや天津教裁判に出廷した東大教授によって『竹内文書』は後世の偽作と断定されたものの「漢字が入る以前に日本固有の文字があったかどうかは不明」と証言したせいか、神代文字を信奉する人は絶えない。

 またこれらの伝承を基づける史料として、上古代天皇の神骨像、八搾の鏡、「刀にすれば以て玉を切るべし」といわれる謎の鉄鉱石ヒヒロイガネで鋳造された大剣などがあったとされたが、証拠品として裁判所に没収された、東京空襲のさいにそのほとんどを消失している。

 天津数は戦後息を吹き返すが、昭和二十五年、今度は当時の施政者GHQによって邪教として迫害された。

 進駐軍は軍国主義の温床とみなした国家神道を禁絶したが、その他の教団には比較的穏やかに対応し、昭和二十年代は現在大教団となっている宗教団体が百花繚乱、その基礎を築いた時期でもあった。

 霊友会、生長の家、ひとのみち教団改めPL教団、創価学会、立正佼正会、踊る宗教と呼ばれた天照皇太神宮教・・・・。そのなかで、進駐軍によって迫害を受けた教団が、この天津教と、女教祖璽光尊、名横綱双葉山の組合せで敗戦直後のマスコミを賑わせた「璽宇」である。

 璽宇は美しい女教祖が「そなた・・・・」と呼びかけ予言予知をすることで人気を得た。昭和天皇が「人間宣言」をした二十一年に、本名大沢ナカの璽光尊が神がかり状態となって、「天皇が神様の地位を放棄したのなら、今度は私が神聖天皇である」と”天皇宣言”をしたのである。

 この突飛な発言の背景には、社会の価値観が根こそぎひっくり返ったこと、「不敬罪」が無くなったことなどが考えられるが、璽宇はやがて信者三十万、当時全国一の教団といわれるまでに拡大した。引退直後の横綱双葉山、碁の名人呉清源などのスーパースターが璽光尊のもとに参集、大衆の好奇心を引き付けたこともその要因である。

 昭和二十二年一月二十一日。「皇位の正統後継者」を広言するようになった璽光尊以下双葉山らの幹部が、GHQ司令部の命を受けた警察当局によって一斉に検挙された。

 このとき大男の双葉山が「ジコーソーン」と叫びながら、群がる警官隊を相手に太鼓のバチを振り回して大立ち回り。逮捕された双葉山はその後信仰を捨てたが、妻が璽光尊直属の幹部であった呉清瀬はしばらく教団を離れなかった。また戦後の混乱期の中とはいえ、「天変地異が起こり、天皇が三種の神器を奉じて参内。璽光尊に大政を奉還する」などとメチヤクチャなことをいう女神様を、文化人たちが持て囃した。下中弥三郎、金子光晴、川端康成、亀井勝一郎などの知識人が、璽光尊に面会している。

双葉山が信仰を捨てた後、璽字の女教祖璽光尊は、昭和五十九年七月独身のまま八十一歳で死去している。

(中略)

 「オウム神仙の会」として発足した当時のオウム真理教が『竹内文書』の影響を受け、麻原彰晃こと松本智津夫が大本の王仁三郎を意識していたと指摘する偽書研究家は多い。
 もっとも顕著な例として挙げられるのが、オウムの瞑想用の道具に『竹内文書』に登場するヒヒロイカネと証する石を利用していたということである。

(中略)

 これは史家・原田実氏が、いまは廃刊となった『宝島30』(一九九五年十一月号)に掲載した『オウムを準備した男』という記事の抜粋であるが、原田氏に限らず当時の『ムーに関わっていたライター、編集者のなかに、「山本白鳥→武田崇元→麻原彰晃」の相関関係を指摘する人は多い。

 それは「幻の超古代金属ヒヒイロカネは実在した」という麻原が書いたとされる記事にまつわる話がほとんどなのだが、その記事を要約すると次のようになる。

 記事はまず、『竹内文書』に基いて、太古の地球上に日本を中心として高度な文化があったことを説明している。その文化は超能力によって支えられたものだとし、その超能力の源泉こそ、かつて『竹内文書』の研究家・酒井勝軍が発見したという謎の金属ヒヒイロカネであったというのである。




日記作者