暴かれた真光日本語版
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2003年11月28日(金) 035 pseudoscience

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日猶同租論と古史古伝

「古史古伝の謎」(別冊歴史読本 64) 新人物往来社1996.8

P120-127
[日猶同租論と古史古伝]
――日本人とユダヤ人が同じ祖先を持つとする主張は客観的に実証できるものではなく、古史古伝の世界においてのみ展開できる議論ではないか――
宮澤正典(同志社女子大学教授)著

<日猶同祖論と古史古伝の接点>
 日本民族とユダヤ民族が祖先を同じくするというような議論は、騎馬民族日本渡来説や海洋民族の渡来説などのように学会に提起されて学問的な論争となるということはこれまでほとんどなかったし、今後もその可能性は乏しい。それにもかかわらず明治時代から幾ダースものバラエティに富む日猶同祖論が巷間に展開されていまも衰えてはいない。
 近年、ユダヤ問題で高名な宇野正美もついに「古代ユダヤは日本に封印された―「聖書」が明かす原日本人のルーツ』(1992年・日本文芸社)を著して同祖論者たちの群れにまた異色の主張を加えた。私はかつて同祖論を立てた人びとが聖書の知識を独特のかたちでもった人たちであったと言ったことがある(「日本・ユダヤ同祖論とは何か」『歴史読本』1991年9月増刊号)が、宇野も大阪聖書キリスト教会牧師でもあり、「『聖書』が解ると世界が見えてくる」(『歴史Eye』1992年6月~1993年3月)の連載でもわかるように、その道の専門家である。

【『竹内文書』などを重んじる人々に同租論者が多いのはなぜなのか?】
 古史古伝の人びとの日猶同祖論も明治以来の聖書知識の普及をよりどころにして登場したと言ってよい.『古事記』以前の書とされる著名な『竹内文書』(磯原文書)をはじめ、『九鬼文書』『宮下文書』その他が、せっかく古い作成年代とされ、それによって日猶同祖論を説いてくれているのであるが、いずれも聖書知識が普及する以前の時代に公開されてそのように説かれることはなかったからである。それに、なぜ日本・ギリシア同祖論や日本・ラテン同祖論にならなかったのだろうか。日本もヘレニズム世界やシルクロードの東縁に文化的につらなる事実からすれば、より同祖の可能性に説得性をもたせ、あるいは実証性を増したかもしれないのに。
 日猶同祖論はユダヤ人の日本渡来説と日本からの分流説に大別できる。そして後者は、それが日本に再帰したとするものと、分流した「事実」を認識できないでいる現代のユダヤ人を問題にする立場をとるものに二分して集約できる。さらにヘブライの正系は日本とユダヤのいずれにあるかをめぐる論議にも展開した。ユダヤ人渡来説にはキリスト教にかかわる人びとが多く、分流説には「竹内文書』など神代文字による文献を重んじる古史古伝の人びとが多い。それらの文献の本旨は同祖論に置かれているのではないが、その方面に一人歩きして展開するに足る内容を含んでいるようである。
 元来、歴史的に実証不能とは断定しないまでも証明のきわめて困難な日猶同祖論は歴史時代において決着のつくところではなく、そこを避けて超古代の古史古伝の世界においてはじめて自在な展開が可能となる。むしろ、そこでしか論議ができないテーマなのではないだろうか。
 歴史時代と現在に関しては、およそ人間であれば時間空間をこえてよく似た風俗習慣をそれぞれ独自に創るものであるにもかかわらず、類似性をもつ諸文化現象を繋(つな)ぎ合わせ関連づける楽しい作業をしていけば同粗論が形成できる。

 その一典型は小谷部全一郎『日本及日本国民之起源』(1929年・厚生閣、1982年・炎書房復刻版)であり、同音は「壱百数拾件」を校勘して「我大日本の基礎民族は希伯来(ヘブル)神族の正系にして猶太(ユダヤ)人は其傍系なる所以」を明らかにしたのであった。しかし、文物の伝来ならともかく人間そのものが民族として渡来ないし分流したことを客観的に実証しようとすれば、その必然性を含めてルートを証明しなければならない。じつはそれを確定しがたいからこそ歴史以前にさかのぼっていかざるをえない。古史古伝の世界こそその論議を展開する好個の場となるのである。そしてその一は信仰的確信に充ちて自明のことのように「実証」してみせるものになり、その二は推論憶測を重ねて結論を導く形をとるのであり、結局臆断をまぬがれない。

<日猶の類比および神道立教コードづくり>
 ではなぜ古史古伝が日猶同祖論なのか。小谷部の前掲書や『竹内文書』は、反ユダヤ論が『シオン長老議定書(プロトコール)』を用いるように、多くの同祖論があげる論拠の共通項になっている。
『竹内文書』は宗教法人・皇祖皇大神宮天津教立教と不可分であるように、神代文字から主張される諸文書の「史実」は、いずれも単なる歴史ではない。それぞれ神道系の宗教団体に属し、その信仰の基本を担う内容の文書であることを無視できない。本居宣長(1730-1801)、平田篤胤(1776-1843)という二人の国学者の努力について述べた堀田善衛の解釈は示唆的である。
 堀田は「荒唐無稽でかつ超自然的な奇蹟に満ちた『古事記』のような非論理的なものを、何とか論理の世界で読み解こうとした本居宣長の努力たるや、たいへんなものだったと思います」「推理小説のようにおもしろい」、「つまり非合理的なことを無理やり論理づけようとする、その宣長の知的努力は、やはり特筆に値する」という。また平田篤胤も、じつに奇妙なというか、悲痛なまでの努力を傾けた人だという。その努力の目的は堀田によれば次のようになる。
「篤胤は、日本国家に合うような教学の中身を神道に添えたいとあれこれ苦心するわけです。たとえば、『古事記』の初めのほうに、天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)という神様が出てきますが、篤胤は、神道に教学の中身を与えるには、この神を最高神としてこの神が天地をつくったということにしなければならないと思って、この神をキリスト教の天地創造に同定しようとしています。次に国家形態を合理的に整備するにはモラルをつくらなければならない。しかし、神道にはモラル・コードがありませんから、今度は、イエスの山上の垂訓を引っ張ってくる。披が中国語訳の聖書から引用した部分があるのですが、その引用部分の上の段に、『この項外秘』と書いてあります。何しろ、キリスト教からネタを借りたということになれば、神道にとってはたいへんな恥ですから、また国学イデオロギーとしての攘夷原則にも反しますから、いっさい他言無用というわけですね。じつにイデオロギー的に四苦八苦、満身創瘡で悲痛なまでに奮励努力をしているのです(『めぐりあいし人びと』1993年・集英社)。

 さて、神代文字の人びとは、さらに荒唐無稽そのものというべき神と宇宙の創世神話を何とか論理的に説明しなければならない。現代の彼らが江戸時代キリスト教禁圧下と異なるのは、日本の始原をユダヤ・キリスト教の上、つまり想像を絶するような古い時間帯に位置づけることにある。たとえば、奥所一男は「竹内文献」とその研究成果である竹内義宮『神代の万国史』およぴ『神代の神代の話』、それに矢野祐太郎『神霊聖典』などを典拠にして壮大な世界史を再構築してみせる。
 それによると、わずか二千六百年の神武日本は「最近において幾千年振りに世に公開された『竹内文献』」の証明するところによると、「神武天皇は実は皇統第千百六十九代」になっており、日本建国は少なくとも一万年以上遡源させて、「万国に先達つ世界の本家親国(神国)たる」位置におかれる。かくてモーゼは、天皇から「万国の総王」という印綬を授けられて来日し、崇神天皇の三博士派遣、キリストの十字架後の「父祖の故郷、魂の故郷たる神の国日本」への渡来等々が、確認されないまでも論定されるのだろうという(『救世主の出現と地上天国』1972年・霞ヶ関書房)。奥所は在野にあって真言密教および古神道の研究を深め、兵庫県洲本市に在住、地上天国建設を祈念する宗教法人安養寺住職である。
『竹内文書』の人びとは堀田の指摘する宣長や篤胤のような満身創痍で悲痛なまでの知的な努力を傾けたかどうか。その内面はともかく、論理においては「この項外秘」どころか、世界に認知されたユダヤ、キリスト教の教理と歴史に公然と擦り寄って、それどころか、これを超古代にいとも簡単に飛躍させる道具=神代文字に依拠して処理してしまったのではないか。俗流の国学思想の歪んだ変形にとどまり、残念ながら結局、「記紀」のようには日本人の共有する古典にはなっておらず、また宣長、篤胤にも及ばないことは間違いない。
 このような検証不能というべき信仰的世界に遊ぶことなく、日猶同祖論を説こうとすれば、たとえば小谷部全一郎(1867-1941)の彼我の対照による民俗、習俗の類似や川守田英二のユニークな言語学的研究によるヘブライ語・日本語一致の発見などに頼ることになる。しかし、これらもその多くは信仰人によって、かつ古史古伝の世界にさかのぼってなされてきたのが実態である。
 小谷部の場合を見てみよう。彼は「十九歳意を決して外国帆船に便乗し、赤裸紐育(ニューヨーク)に上陸して以来、異郷の学窓に螢雪の苦を嘗めて春秋を迎ふること十有三年、而も其間一銭の邦貨を費やさず、最後の名残に世界五大学の一に列するエールを卒業して帰朝」した。「西教の原理は我神道とその趣を同ふすと信ずる自説を確めんが為」の神学研修でもあったという。いまその経緯は省略するが、結局「従来の神道は旧習に囚はれて世と進歩を伴はざる嫌ひあるが故に、之を革新して世道民心を益する機関たらしめんと欲し」、「内外史家に難問とせられ居る我大日本の起源に就て筆を執り以て本書を成すに至ったのである」
 内外における苦節を経て、日本の基礎民族は「英邁の資、卓越の才を懐く希伯来(ヘブル)選民の正裔なり」と「立証」し確信することができたとき、それは宗教的体験に似た回心であったに違いない。こうして彼の同祖論は神道的な「独自の宗教」を創出したのであった。
 このような自負に支えられた日本人観に立って、「東方に金甌(きんおう)無欠三千年の神国日本の毅然卓立する事を知らず、屋上更に屋を架せんとして神国建設の運動に盲動しつゝある猶太(ユダヤ)の子孫等よ覚醒せよ」といましめ、「卿等須く大悟徹底し」、「我日本と唇歯輔車(しんしほしゃ)の和親を保ち徐(おもむろ)に神の道を天下に弘布し、物質文明に陶酔して前後を弁へざる現代人に覚醒の機を与へ、世界を真の平和に導く仲介者たれよ」と訴えた。
「我等と同じく罪なくして排斥せらるゝ、猶太民族に同情を寄せ、彼等を光明に導き希伯来の理想にしてまた日本の使命たる神国樹立、四海同胞、乾坤一家の天業に共力する所あらしめよ、是即ち皇祖の所謂八紘を掩ふて宇(いえ)となさんとせる聖旨に合し、併せて父祖に孝を神に忠なる所以也」
 かくて「今は正に日本人の一大覚醒を要するの秋にあり」と認識されていた。1929年における時局のなか、日本至上を説く日本主義であり、現実には近代国家としてのルーキーであり、国際的にも困難ななかで、世界を鄕導(きょうどう)すべき使命をもつという民族的指針を構築したのであった。

<現代の稗史としての同祖諭>
 宇野正美が日々の国際政治経済社会にわたる現在的課題を精力的に説きあかそうとしているのは斯界に周知の事実である。とくに全世界のユダヤ人口のうち90パーセントを占める「ヨーロッパ系ユダヤ人はアブラハム、イサク、ヤコプの血統の本当のユダヤ人ではなく、ユダヤ教徒カザール人にすぎない」ことを知り、「親ユダヤを捨て、明確に反シオニスト」となって(『ユダヤと闘って世界が見えた』1993年・光文社)からの論鋒は一層顕著である。
 彼の同祖論もユニークではあるが、共通点さがし、およぴ旧約聖書に投影させた古史古伝的手法で始めている。前掲の『古代ユダヤは日本に封印された』によれば、「今日、イスラエルという国が建国されているが、そのイスラエルで常に下積みにおかれているスファラディ・ユダヤ人と言われる人たちこそセム系にしてアブラハムの子孫であり、本当のユダヤ人である。古代イスラエル人も日本人もその流れから出ている」そうである。そして「私たち日本人と、このスファラディ・ユダヤ人たちとの間には多くの共通点がある」という。
 いまその共通点さがしの紹介に深入りすることは避けるが、この書物に充ちみちているのは、「ならば」、「はずである」あるいは「ないだろうか」という構造の論理である。この「ならば」、「はずである」を反復して積み重ねたあげくに「ほかならない」ともっていく。
 たとえば、川守田のイザナギ、イザナミ=イザヤ・夫婦説を引用して、「もしこの説が正しいならば、日本に契約の箱が来ていることになる。来ていたならばそれはどこにあるのか」。「日本に古代イスラエルの十二部族が来ていたということの証明は、契約の箱をおいてほかはない」。「『旧約聖書』に徹底的に忠実でありたいとする人たちは、バビロンがユダを滅ぼす以前にイザヤとともにその国を脱出した。契約の箱を守るためである。したがって祭司集団も同行したと思われる。彼らははるか東の国、日本を目指して、海流に乗って出発したのではないか」。「『東方』とはどこか。『日出ずるところ』である」。「イザヤ夫婦の信仰を受け継いだ集団が、この当時の日本にいたのではないだろうか」。「『イザヤ書』を繰り返し読んでいたのではないか」。「おそらく今から二千年前、日本と古代イスラエルとの間に交流があったのではないだろうか」。「あるときはシルクロードという陸路、あるときは海流をたどる水道であっただろう」。日本に「古代イスラエル人がいるとするならば、『ヤコプの手紙』は日本人のうちの一部の人に送られるべき手紙そのものではないか。」
 かくて「イスラエル十部族、ユダ二部族の本体が日本にいると思われる」にいたり、「日本に古代イスラエル人の子孫がいるとするならば、世界情勢の激変の中、日本の役割はどのようなものとなるだろうか。「近い将来、古代イスラエル人が日本にいるかぎり、日本の時代がやって来る」。スファラディ・ユダヤ人のレビ前イスラエル外相と丁昔日の弁明も許されず退陣した海部元首相は、ともに古代イスラエル人の血を受け継いだ者であり、地面から芽を出したが、「しかしまだ本格的な活躍のときではなかった。彼らはともにその序曲を奏でたのであった。大みそぎの後、世界は変革し、日本も変革する。その中で古代イスラエル人の子孫たちは、聖書の予言どおり完全回復に向かい、新しい時代の担い手となるだろう」。「不思議な国、日本。この中で不思議な胎動が始まった」というのが、同書の結語である(傍点は宮澤)。
 客観的に実証できないで、仮定法を積み重ね、古史古伝に遊泳して現地の課題に結びつけて断定しても、それは稗史(はいし)的にならざるをえない。それを確信して強弁するとデマゴーグになるが、天津教などのような神秘的信仰の領域に及ぶことになる。

 稗史風といえば、昭和戦時下に同祖論をテコに反ユダヤ反天皇制を結合させた興味ぶかい資料がある。「大阪朝日新開」への「不敬投書」として記録されている(『特高月報』昭和十八年六月)。
「前略この度例によって妃殿下が各地へ慰問に来られるさうだが、それは真平御免罷ると御社より言上されたい、何となれば彼等の来訪は百害あって一利なし、多勢の供をつれて美衣をまとひゾロゾロ来られるのを見て非常時下慨嘆さぜるものなし」、「大戦中彼等一族は何をなしたるか社会の外に美衣美食なすところなく、稀に戦場に有る者を見るに血を流して占領した後をフラフラうろついて視察するのみの芸なり」。
 「我等の志、そは一日も早く三千年日本を我物として君臨せし彼等一族特権階級を亡して新日本を建設するにあり、平民日本を建設するにあり、平民日本を建設するにあり」、「三千年五千年の昔人類地球上に棲息を始めしより日本にも土着の民あり、そこへ大陸より神の選民と称する天孫族渡来し次々と土着民を征したり」、「土民の中には出雲族あり、土蜘蛛あり、熊襲あり蝦夷あり皆併合或は征服さる、そして極めていやしめらる、彼等天孫族は何れから来たるや、元より知るべくもあらざるが太鼓猶太の首長モーゼは部下をひきゐて東に西に放浪、遂にエジプトに至りそこをも脱出してイスラエルに帰るその中最も精猛なる部族は同族と別れて東漸又東漸支那に至りて消息不明となる。日本に来りし天孫族は彼等なりと信ぜらるる点多し、我等は日本を愛す、この国土を愛す、故に大東亜戦にはあくまで戦ひ勝つ、勝たねばならぬ、さりながら猶太人の子孫たる天孫族、猶太の子孫にはあらざるも三千年尊大を極めし彼等をして尚安眠さす余地は持たざるなり」。
「天孫降臨の事実を証されよ、科学的に、百千の団体明徴運動も尊いが故に尊べでは合点せられず、高天原の天下りは三つ児しか信ぜざるなり、言論機関よ、よろしく我等に協力せよ」。
 以上、論理の混乱はあるが、稗史風の日本民族論を展開していて、言わんとする論旨は一応理解できる。古史古伝的“研究”の成果が端的にあらわれ出た例といえる。
 これとは対照的に、宇野正美は、日本への渡米ユダヤ人は「あるところでひっそりと二千数百年、やがてのために生き続けなければならなかった」そうである。
「日本に古代イスラエルの十二部族が来ていたということの証明は、契約の箱をおいてほかにはない。ただこれがあれば全世界の人々の口を封じることになるだろう。特に欧米人たちは驚き呆れて、口をつぐむ。中東の人々においてもしかりである。しかしそれまでは仮に日本に契約の箱があったとしても、一条の光も漏れることもなきベールがそれを包むことだろう」と、隠されており、「日本にかくまわれていた古代イスラエルの血を受け継いだ子孫たちが約束の地に戻るという」、その顕現への胎動を、宇野は読みとっているようである。

 かつて国学者が和歌や漢詩に託して、その心情を表現したように、諸宗教人から不敬投書者、現代国際政治経済に通暁するらしい研究者にいたるまで、古史古伝に託した同祖論によってその心情を語るという、いずれもユニークな「古典学者」たちに違いない。その意味で国学者の俗流一変種といえる。しかし、自らの特異性は、かえってユダヤの宗教や歴史によりかからせることによってのみ自在に展開しうるのである。実証しがたい事柄であればあるほど親ユダヤ反ユダヤ、皇室尊崇反天皇制など、いかようにも自己の主張を組み立てる手段とすることができることを物語っている。
 さまざまなバリエーションで「日猶同祖と言わざるをえない」と結論されても、それが客観的に証明されたわけではない。むしろ始めに同祖というゴールが設けられており、それを論証するためにそれぞれどんな材料をどのように用いて組み立てるかのコンテストの様相を呈する。いわばその知的ゲームの競争を読者は余裕をもって鑑賞し、どのように採点するかである。古史古伝に由来する日猶同祖論者たちによる歴史の書きかえの必要も、現代日本への論策がこの日本を導いて潮流をつくる兆候も見出せそうもないからである。

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「猶太難民と八紘一宇」上杉千年著 展転社



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