暴かれた真光日本語版
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2003年04月29日(火) 015 foundation1

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約100年前、神道は次のように分かれた。

神社(神社神道):これは最も大きな神道の派閥である。それは、宗教の起源でもあった。つまり、その根本は有史以前にさかのぼる。第二次世界大戦の終わりまで、神社神道は国家神道と密接な連携をとっていた。日本の天皇は、生きた神として崇拝されていた。ほとんどの神社は、神社本庁という、神道神社連合に属している。
教派神道:これは、13の教派からなり、それらは19世紀始めから個人個人によって創設されたものである。
民間神道:これは神道の宗派の一つではない。それは中心的な組織や教義をもたない。それは、地方の行事や儀式の中に見られるものである。例えば、道端の小さな像とか、個々の家族によって催される農耕における儀式などである。
間違いなく、真光は神道文化に深く根ざしており、神道における多くの実践を取り入れ、神道の宗派の一つに対して、真光の存在の是認を頼っている。

岡田氏が自分についている(自分そのものである)と主張するところの神は、仏教、キリスト教、イスラム教、儒教、道教など、実質上すべての宗教の教えを一つに統一する役割を持っているとされている。この主張を基礎とし、真光はこれらの宗教の教えの中から色々な部分を抜き出して、岡田の主張を支持するような解釈を与えている。真光のテキストブックの全ページにおいて、聖書や仏典からの引用を利用し、岡田良一氏とその救世主しての役割と、人類の霊的復活(ルネッサンス)における日本の極めて重要な役割について焦点を合わせている。実際真光は、岡田氏をイエスやブッダと比べることは神に対して無礼だと遠慮なく言っている。岡田氏はイエスやブッダよりも偉大な役割を与えられている最初の救世主なのだというのである。

宗教がその創始者の神格性について主張するときの難しい点の一つは、その主張をある程度の客観性を持って評価できるかどうかということである。信者たちにそれ(創始者の神格性)を信じさせることは、必然的に「信仰の力」が作るシナリオの中に落ちこむことである。そのシナリオとは、「私は信じる、だから正しい。」というものである。


(注:「信仰の力」が作るシナリオ→信じる力とは不思議なもので、どんなものでも信じ込めば信仰の対象になりうるということ、つまり、「鰯の頭も信心から」と同じような意味か?)
宗教やカルト教団の生き残りとその発展にとって、継続的にこの「信仰の力」を繰り返し強め、彼らがいうところの「真実」に基づいた明らかな「証拠」を提供することが重要である。信者たちがその「信仰(の力)」を持ちつづけているかぎり、綿密な調査によってその証拠が覆されてもされなくても、そんなことは重要でなくなるのである。

真光も例外なく上のプロセスの中にある。数年をかけた調査によって、岡田良一氏が神であるという信念に基礎を置く「信仰の力」が激しく揺さぶられているにも関わらず、である。この調査は、真光の信者たちに、真光がいうところの「真実」に対する信念を、新鮮な目で見つめなおさせるものである。教団への関与は教団の外での生活を困難にする病をもたらすだけであることを発見して、多くの人は裏切られていたと感じ、幻想から覚め、真光から去っていった。その他の人々はこの調査を見て、これは「霊の邪魔」であるとかうそだとか決めつけ、そういう否定がもたらす心地よい繭(まゆ)に包まれつづけることを選んでいる。反対に、真光が確かだと認められ名誉を回復すること対して不安を感じるならば、もはや真光の信者でなくなることによって幸せになれるのである。

真光がその霊的正当性の証拠として掲げる中心的支柱の一つは、ブッダの予言と言われる次の言葉にある。「正しい教えを説く者が、私の死後3000年たってから在家の中から(宗教に対する素人の中から)現れる。」 この予言は真光の研修の中で紹介されており、岡田氏がまさにその人物であり、宗教的経験を持たずして神から使命を与えられた人、とされている。言い換えればブッダは、この人物は宗教を専門とする階層の人々から選ばれるのではなく、ごく普通の人々の中から選ばれると予言している。真光はまた、イエスは次のように言って、岡田がその救世主であるという予言に信憑性を与えているという。「真理のみ霊が地に現れ、汝らに真実を述べん。(←注:聖書の言葉らしいです。訳に自信がありません。)」 これらの主張は、真光の信仰における要諦である。

岡田氏が1959年(昭和34年)(※)に彼自身の教団を設立する以前に、彼は10年ほどの間宗教家だったことを知ることは、真光の信者に大きなショックをもたらした。中心的支柱が崩れはじめ、すべての領域において岡田氏の信頼性に疑問が投げかけられた。彼は、ブッダの予言にあるような素人ではありえず、そしてそのことが真光に関する基本的なことがらをも信じられなくさせてしまうのである。


(※)原文では1957年となっているが1959年の間違いではないかと思われる。
1993年に○○真光によって発行された「大聖主」(Ketaro Shibata著)によれば、岡田氏は40才代の初めに胸部脊椎カリエスと呼ばれる状態のために深刻な健康問題を抱えており、また、慢性的な消化不良とストレスによる神経衰弱に苦しんでいたという。彼は、九州大学の外科の長であるNakamura?医師に、あと3年の命と宣告されたという。

彼の日記にはこう書かれている。「私は、骨(背骨?)が3年のうちにだめになると言われました。しかし、医者の言うこととは程遠く、病院へ再び検査に行ったときには、すべてが自然に治癒していることがわかったのです。」 彼の伝記には、彼が長い間「浄霊組織」とか「S界救S教」と呼ばれる日本の教団に属していたことが、全く述べられていない。1950年代の岡田氏を知る、S界救S教の幹部であるT氏(尊師)によれば、岡田氏は、そのカリエスをS界救S教における実践、つまり手から放射されるエネルギーによって癒したという。岡田氏は、T氏(尊師)が信者の一人であったS界救S教の教会の幹部だったという。

T氏の供述を裏付けることが、S界救S教の教義部(?)にいるもう一人の幹部であるA氏から得られている。彼は岡田氏を知っており、1949年(昭和24年)ごろ岡田氏と一緒にS界救S教の幹部たちとともに写真を撮ったという。また、岡田氏のような人は聖人と呼べるかもしれない、と言って面白がっていた。S界救S教の幹部たちは、他の宗教を批判することを禁じられているという。しかし、岡田氏が救世教の信者であったという事実は変えようがない。

岡田氏は、1947年(昭和22年)ごろ名古屋地方でS界救S教に入信し、熱心な信者となった。1949年(昭和24年)、彼は東京の西荻窪にある分派教会の博愛教会に割り当てられた専従の(給与も支払われる)幹部となった。A氏は、一年間西荻窪で、岡田氏を補佐する幹部であった。岡田氏は、岡田仲道(Chudo)として知られていたが、後に自分自身を光玉先生と呼ばせ始めた。(※)写真の中にいるH女史は、岡田氏の上司であった。岡田氏はたびたび、S界救S教の創始者であり明主(盟主)様と呼ばれる岡田茂吉氏の教えについて、いくつかの部分において違う見解を述べるようになっていった。(岡田良一氏と岡田茂吉氏は、同じ岡田姓だが縁戚関係は無い)


(※ 「光玉」という名前は、「御聖言」によれば1959年(昭和34年)2月27日に神示によって神から授けられた名前のはずであるが、それ以前に使われていたらしい。「御聖言」自体の信憑性が疑われる。)
岡田氏はたびたび、彼の霊への興味を注意され、将来問題を起こすだろうと警告されていた。1953年(昭和28年)に、彼は問題行動(性的不品行)よってS界救S教の幹部を罷免された。1957年(昭和32年)までは、S界救S教に所属して密接な関係を保っていたが。この頃、彼は妻と離婚している。S界救S教の熱心な信者であり、岡田氏に付き従ってS界救S教を去ったある一つのファミリーに所属し、後に岡田氏の養女となった、井上甲子という若い女性は、後に○○真光の指導者である岡田恵珠女史として知られるようになった。現在彼女は70歳に達しようとしている。

(注:井上甲子女史の素性については、「新興宗教の正体」という書物に記述がある。)
(注:額の手かざしの前に祈言を奏上すると浮霊しやすくなる、ということは救世教内で知られ、禁じられていたようです。そのことや霊査などに興味を持って続けたのが岡田光玉氏と言われています。結果として、これが罷免の一つの理由となりました。)

(注) 岡田光玉氏の罷免事件に関する証言(2ちゃんねる http://www.2ch.net/ −心と宗教−真光関係者集合!!(8)−547、548 2002年8月8日)
「私は救世教関係の者ですが、岡田光玉氏の救世教時代について私が直接、間接的に関係者から聞いて知ったことをここでまとめてお伝えしておきたいと思います。岡田光玉氏が性的な問題を起こして救世教を破門されたという事に関して、これはおおよそ正しく、一部誤解があるようです。

世界救世教の浄霊では、始めは治療的に触診などをしていたのですが、昭和25年頃から体に手を触れないことが原則の浄霊に変わりました(昭和25年12月27日 「浄霊法変わる」) ところが岡田光玉氏は、手を触れない浄霊法の時代になった昭和二十八年のある日の浄霊中に、意図してか誤ってか、相手の女性の体に触ってしまったということがあったらしく、女性が悲鳴をあげ、布教所が騒然となったそうです。このトラブルと、それまでの浄霊中の霊的現象に非常に興味を持っていたことをあわせ、岡田氏はこの時点で、専従布教者を解雇された、すなわちクビになったということらしいのです。破門をされたのではなく、解雇されたのです。

だが、単に教団からの雇用を解かれただけで信者をやめさせられたわけではないので、岡田氏はしばらく一般信者として参拝などを続けていたようです。というのは、教祖が亡くなったのが昭和30年で、その後二代教主様が就任されましたが、昭和32年頃まで、岡田光玉氏が聖地参拝に来て二代様のご講話を聞いていたという目撃証言があるからです。私は真光の教義を詳しく知っているわけではありませんが、時々掲示板に掲載される用語などを見ると、教祖の影響とは別に、救世教二代教主様の影響があることもうかがえます。岡田氏は、霊がかりに興味を持ったことと、そして女性の体に触ってしまったことで解雇されたことから、霊と自由に話をすることが出来、相手の体を触れることが出来る真光をおこしたのでしょう。

(追記)世界救世教には、腎臓部分や肩、首などを触られても悲鳴を上げるような文化があるわけではありません。これは当然、女性が悲鳴を上げるような場所を光玉氏が触ったという意味です。」

S界救S教の幹部の集合写真が、1949年(昭和24年)から1951年(昭和26年)の間に撮られており、彼らは東京のS界救S教の博愛教会の信者たちであった。


「1」岡田仲道(良一)氏、「2」A氏、「3」A氏、「4」S氏、「5」H女史
(プライバシー保護のため、岡田氏以外にはぼかしをかけています。)


真ん中の写真は、上の集合写真中の「1」の人物の拡大写真。

上の写真を見れば、耳の形から明らかである。岡田良一氏を撮ったこれら3枚の写真は、違う年齢の時の写真だが、明らかにS界救S教の集合写真の中の人物が岡田氏であることを示している。

上の情報が明らかとなったとき、日本の真光の秘書官に、教義の中のこの明白な矛盾について説明を求めた。秘書官からの回答は、岡田氏のS界救S教への関与を全面否定するものであった。岡田恵珠女史は、秘書課長であるK.T.氏を通して(下のK.T.氏からの手紙、参照)、岡田氏が10年ほどの間S界救S教の幹部であった事実を否定したが、なぜ否定するのであろうか?

以上の証拠から明らかなように、岡田氏がブッダの予言、「正しい教えを説く者が、私の死後3000年の後、在家の中から現れる」、のなかのその人であるという真光のはかない主張は崩れ去った。明らかに、岡田氏は在家(宗教の素人)ではないのである。

(注:「在家」とは、ブッダの弟子以外、すなわち仏教徒以外のことである、という解釈もあります。しかしながら、真光では(初級)研修において、「在家」とは宗教の素人という意味であり、岡田光玉氏はその素人であった、だから岡田氏はブッダの予言した救世主だ、と教えています。つまり、「在家」という言葉の正確な意味はともかく、明らかに真光(岡田氏)は自分の理解した「ブッダの予言」に沿うよう岡田氏の過去を隠蔽し、岡田氏を救世主にしたてあげようとしています。)
1959年(昭和34年)2月27日には、ユニークな新しい宗教が生まれたのではなく、岡田氏の色々な過去の経験が、試され証明されてきたカルトのテクニックの中に織り込まれ、一つの宗教運動が形成されたのである。それは、シャーマニズムとオカルト的実践に深く影響されていた。しかしながら、どのように複雑化しようとも、真光のあやふやな基礎は消し去ることができない。

真光とS界救S教の教えを比較すると、岡田氏はその基本的な教えの構築に当たっては、S界救S教と神道の実践に依存していることは明らかである。証拠が必要なところでそれを与えることに岡田氏は非常にうまく成功した。つまり、日本の伝統的な宗教である神道という、強力な支持者を得ているように見せたに違いない。不幸にも真光に魅了された人々の経験を聞くと、非常にたくさんの人々の人生が、岡田氏の「成功」によって破壊させられたことがわかるのである。(注:この段落は、あまり英語に忠実ではなく、かなり意訳してます。)

岡田氏が打ち立てた彼自身の霊的帝国の基礎は、このようにして非常に不安定なものとなった。

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