暴かれた真光日本語版
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2004年11月08日(月) キリストの墓の真実(11)-(15)

490 キリストの墓の真実(11)――別冊歴史読本1996(d) 2004/12/23 14:50

 さらに昭和9年(1934)、酒井は広島葦嶽でピラミッドを発見するにいたる。「日本にピラミッドがあった」とする説の根拠もまた『竹内文献』に求められる。ピラミッドを日本で発見した酒井は、さっそく『太古日本のピラミッド』なる著作を発表する。そこで展開されるめくるめく論理の飛躍は、じつはイギリスの「聖書学」的ピラミッド論の投影であった。20世紀初頭のイギリスで隆盛をみたこの奇妙な論理は、ピラミッドは建築化された聖書であり、そこに創世紀からハルマゲドンまでが立体化されている――というものだ。こうした理論がイギリスで隆盛をみた背景には、日猶同祖論と非常によく似た英猶同祖論の流行があった。
 さて、酒井が磯原でモーゼの十誡石を発見したとき、そして広島でピラミッドを発見したとき、傍らにつねに同じ人物がいた。そしてその人物こそが<キリスト伝説>に関わることになる。鳥谷幡山(とやばんざん)――それがその人物の名だ。

◇鳥谷幡山の(キリストの墓)発見
 酒井が広島葦嶽でピラミッドを発見した翌年――昭和10年(一説には同9年)、鳥谷は青森県戸来(へらい)村村長・佐々木伝次郎の要請を受けて同村を調査する。「日本でピラミッド発見」の報は、酒井が記しているように「青森県の奥山ですら之を話題となすまでに吹聴され」た。そのための要請だったようだ。もっとも酒井が青森でも講演会をかなり重ねていて、そこから派生してのもの――との指摘もある。いずれにせよ鳥谷は期待どおり、同地でピラミッド――大石神ピラミッドを発見する。
 同年、鳥谷は『竹内文献』のなかから「キリストの遺言状」が出現する現場に立ち会うことになる。さらに鳥谷は竹内巨麿らとともに戸来村に入り探査、その結果キリストの墓を発見する。こうした事態の連続は、やがて鳥谷をキリスト渡来の実証に赴かせることになってゆく。鳥谷の著『十和田湖を中心に神代史蹟たる霊山聖地の発見と竹内古文献実証踏査に就て併せて猶大聖者イエスキリストの天国(アマツクニ)たる吾邦に渡米隠棲の事蹟を述ぶ』などを読むと、迷ヶ平=眉ヶ平に太古の神都があったこと、ウガヤ三十七世の陵墓を発見したこと、イエス・キリストは八戸太郎天空神なる天狗であったこと……など、酒井に負けず劣らぬファナティック・イマジネーションが展開される。
 それにしても……この昭和10年の巨麿と鳥谷による戸来村探査に、なぜ酒井が同道しなかったのだろうか。どのような理由があったのか。鳥谷の説明によれば、巨麿が「特殊関係者だけで」と主張したためとなっているが、すでに熱烈な『竹内文献』のプロモーターとなっていた酒井こそ特殊関係者ではなかったか。鳥谷がイエス=猶太聖者とする点など、これは明らかに酒井の影響だと思われるのだが。
 ともかく、こうして『竹内文献』に導かれて、酒井のモーゼ十誡石とピラミッド発見を目撃し、ついにはキリストの遺言書と墓まで発見した鳥谷だったが、後に巨麿に対して批判的/懐疑的になってゆく。後年の著書のなかでは「己れが古文献を所蔵するからといって勝手に誤れる解釈をして平然たるものがあり……」などと激しい言葉をさえ投げるようになる。
 それでもまだ、鳥谷にとってキリストの渡来を保証する唯一の存在が『竹内文献』であることに変わりはなかった。巨麿に対して懐壌的になっても、『竹内文献』そのものを疑うようなことはなかったのだ。


491 キリストの墓の真実(12)――別冊歴史読本1996(e) 2004/12/23 14:52

◇最後の登場人物
 竹内巨麿、酒井勝軍、鳥谷幡山……とつづいて日本における<キリスト伝説>は形成されていった。そしてその事態の渦の中心点には、つねに 『竹内文献』があった。しかもこの伝説形成は酒井が『竹内文献』と対面した昭和4年以降に一挙に展開される。
 ところが巨麿らが戸来でキリストの墓を発見した翌年――昭和11年、新たな登場人物が舞台に加わることになる。萩出身の山根菊子である。山根は鳥谷からキリストの墓に関する話を聞き、そしてキリストの遺言書と対面した。これが契機となって昭和12年、山根は『光りは東方より』を著わし、キリストの墓伝説が広く流布することとなってゆくのだ。
 山根がキリストの遺言書と出会った昭和11年、巨麿は不敬罪などに問われ検挙され、また天津教は徹底的な弾庄を受けることになる。さらに山根の『光りは東方より』のなかには、不思議なことになぜか昭和十年の巨麿らの戸来村探査についての記述がまったくない。これだけを読む者は、キリストの墓はむしろ山根によって発見されたかのような印象さえ抱くだろう。はたしてそれは偶然だったのか、それとも山根の計算のうちだったのか。
 天津教弾圧と山根本の登場 ――これによって『竹内文献』とキリストの墓が分離してゆくことになる。いや、むしろキリストの墓が独り歩きしてゆく――と言ったほうがいいのかもしれない。
 山根は『光りは東方より』のなかで、イエス、モーゼ、ヨセフ、ブッダらが日本に渡来していたと主張する。今日の戸来村=キリストの墓伝説のイメージは、巨麿でも鳥谷でもなく、山根と重なっていると言えよう。同著が話題になったおかげでキリストの墓伝説は広く海外にまで知られることとなった。
 鳥谷は後年(昭和38年)、山根に研究成果を窃されたと嘆き、山根の行動を「災いの種」であるとしている。

◇伝説の迷路の奥で
 山根の登場によって、日本のキリスト伝説=キリストの墓伝説は完成した。それが 『竹内文献』にはじまる伝説形成のおそらく深層であった。しかし、これで伝説にまつわるすべてを語りえたわけではもちろんない。
 たとえば昭和8年に、『竹内文献』を研究していた矢野祐太郎が天津教の外郭団体<神宝奉賛会>を組織し、そこには中里義美がいた。中里こそは、一条らエソテリック・エスタブリッシユメントたちと古史古伝/神代史運動を結びつけたキィパースンだった。矢野はやがて天津教を去り、大本とも因縁の深い神政龍神会を興す。この神政龍神全の神話字宙は宮中にまで浸透し、信者であった女官・島津ハルは精神病院に隔離され、そのため矢野は逮捕されるにいたる。
 そして大本教は天津教に対して、モーゼの十石を当時の金額3万円で譲るよう交渉した――というエピソードがある。大本の出口王仁三郎にまつわる膨大な記録のなかには、彼が「竹内文献」について「竹内古文書にはわしが神界から聞いているのとまた少し違っているところもあるが、また信ずべきところもあり事実もある」と語っていたことがあるのを、武田崇元が紹介している。
『竹内文献』は出口王仁三郎をしてそのように言わしめた古史古伝であったが、大本教ばかりか大本水系の一部を成す世界救世教や、あるいは世界救世教から分かれていった崇教真光およぴ世界真光文明教団といった教団に『竹内文献』は影響を与えていることが、すでに多くの識者によって指摘されている。近代から現代へといたる新宗教熱はある部分で、『竹内文献』水脈の流れでもあるのは間違いない。


492 キリストの墓の真実(13)――別冊歴史読本1996(f) 2004/12/23 14:53

 巨麿が天津教を興して活動を展開した時代は、まさに数多の古史古伝が浮上し、それまで隠されていた神々が復活し、狂熱的なまでの神代史運動が繰り広げされた時代でもあった。「竹内文献」はそうした時代の産物――産物という言葉が適当でなければ、そうした時代の投影物なのである。キリストの墓をめぐる伝説も、日猶同粗論やユダヤ禍論の横溢がなければ輩出されなかったろう。
 竹内巨麿は『竹内文献』の正統性を、竹内一族に伝えられてきたものとして守ろうとした。しかし……あえて言うなら『竹内文献」は王仁三郎の『霊界物語』と同様に、巨麿という異能者によるアカシック・レコードだったのではあるまいか。
 そして……『竹内文献』を中心とするモーゼの十誡石やキリストの墓は、巨麿が酒井勝軍や鳥谷幡山と出会うことで生まれた幻だったのではあるまいか。〔文中敬称略〕

参考文献
『神代秘史資料集成』大内義郷(八幡書店1984)
『神秘之日本』酒井勝軍(八幡書店1982)
『光りは東方より』山根菊子(八幡書店1985)

※この文章は、文献 [1]P48-57にも掲載されている


493 キリストの墓の真実(14)――別冊歴史読本2000 2004/12/23 14:54

文献[3]危険な歴史書「古史古伝」“偽書”と“超古代史”の妖しい魔力に迫る!
(別冊歴史読本54号) 新人物往来社 2000.10

巻頭カラー写真(P7)
「キリストの墓」……歴史的には中世豪族の墳墓と推定されている。

P291-304
対談 「古史古伝」可能性とその限界――古史古伝の放つ妖しい魅力
  田中勝也(歴史研究家)
  原田 実(文明史家)
(抜粋)
■「古史古伝のチャンピオン『竹内文献』
原田 「古史古伝」のチャンピオンはやはり『竹内文献』でしょう。いわゆるモーゼやキリストの墓が日本にあった! というたぐいの聖人伝説が生まれる上で大きな役割を果たしています。『竹内文献』は、宇宙開闢まで遡る長大な皇統譜をもっており、しかもそれは、世界中の人類が全て日本の皇室から別れたことになっているという広大なものです。年代的にも地域的にも壮大な物なのですね。その皇統譜を裏付ける形で、もしくはその皇統譜の原型となる形で、聖者の伝説というのを作っていったのが竹内文献なのです。
 竹内文献では、こうしたトンデモ系の「聖人の話」が生まれた経緯が特定できるわけです。例えば、戸来村のキリストの墓というのは、昭和十年に突然現れます。もともと地元にはそのような話はありませんでした。竹内巨麿が戸来村に、古代史研究家で日本画家の鳥谷幡山と村に現れ、「キリストの遺言が竹内文献の中から出てきて、実は戸来村に住んでいた」とい出すわけです。そして、村の竹薮の中にある塚を見て、「これこそキリストの墓である」といいだしたのです。
 また、石川県にモーゼの墓があります。これもやはり竹内文献絡みで、酒井将軍というキリスト教神学者が竹内巨麿のところにいき、「ここにモーゼの十戒を刻んだ石はないか」と尋ねるんですね。「では、調べてみましょう」ということになって、しばらくして「ありました。実はモーゼは石川県の能登半島で死んでいました」という話になるのです。また、竹内家から出てきた「モーゼの十戒」は豊国文字で書かれています。『上記」とモーゼというのも関係がある、ということなのでしょうね。
田中 戸来村というのはヘブライと関係があると、ゴロ合わせでこじつけられた。
原田 現在は新郷村になっている戸来ですが、あの一帯には一戸、三戸、八戸など「戸(へ)」という字のつく地名が東北には多いわけです。さらに、竹内文献とは別系統で「ナニャドヤラ」という村の民謡がヘブライ語だ、とアメリカ帰りの神学博士守田英二氏が言い出します。
 このように『竹内文献』に関しては、いつ何がきっかけでそう言う話がうまれたかということを特定できる。ある意味でこうした古史古伝の成立過程が検証できるわけです。大正時代に”発見”されたころには、南北朝の伝承を中心にしていた『竹内文献』が、どんどん大東亜共栄圏や八紘一宇の思想にのってトンデモない想像力を羽ばたかせ、世間の注目を集めるようになっていきます。戦時中には不敬罪で弾圧(大審院では無罪)されるわけですが、こうした一連の事件がおきているのが昭和に入ってからなので、記録も残っていますし。


494 キリストの墓の真実(15)――幻想の津軽王国(a) 2004/12/23 14:58

幻想の津軽王国−『東日流外三郡誌』の迷宮
原田 実 批評社1995.5

P208-213
■キリスト伝説の怪
 実は和田家史料群と「竹内文献」には奇妙な接点がある。それは和田家史料群「奥州風土記」の「戸来上下大石由来」(寛政六年七月二日、秋田孝季の記という)にある「戸来邑にては、キリストの墓など奇相な逮跡ぞ存在す」の一節である。先にもやや触れたが、戸来村のキリストの墓は竹内巨麿が昭和十年にこの地を訪れたさいにはじめて「発見」されたものであり、寛政年間の人がそれについて書きうるはずはなかった。
 その点を斎藤隆一氏より指摘された古田氏は次のような反論を発表している。
〈史料根拠とされた、史料(浜洋「日本の20不思議』大陸書房)は、果して「証拠として疑いなし」というような「信憑性」があるのか。少なくとも、学術論文で「証拠」にはあげにくいが、大丈夫か。
○戸来村には、古くからの民俗中に「十」が使われている。また仙台で受難したキリシタンが周辺に散居・亡命したとき、これをキリスト教の「十」に結びつけた可能性も無視できぬ。この可能性を無視してよいのか。
○「戸来(へらい)」の「戸」は「フ戸」「二ノ戸」……「八ノ戸」などに近接しているから、この「戸」と見るべきであろう。「〜来(らい)」の形も「五来(ごらい)」というような姓(有名な民俗学者)があるように地名接尾辞の一つ。それがあの「ヘブライ」と類書と考えられたのではないか。
P209
○これらの可能性を一切排除し、このアイデアを竹内巨麿の「独創」と断定する根拠は何か。「大陸書房」の「20不思議」で確実な(学問的な)根拠になるのか(16)>
 なるほど、古田氏ほどの大家になると斎藤氏がレジュメで引用した「大陸書房」の「20不思議」などに史料価値を認めるわけにはいかないらしい。しかし、竹内巨麿の戸来村探訪については同行した画家・鳥谷幡山が記録を残しており、それは現在、復刻版で容易に入手できるのである(17)。その第一史料としての価値は何人にも否定できまい。
 鳥谷の記録によると、昭和十年八月上旬、巨麿が戸来村を訪れた目的は、その前年の十月、鳥谷が当地で「発見」した大石神のピラミッドを確認するためであった(この「ピラミッド」こそ、実は和田家史料群の表題に現れた「戸来上下大石」なのである)。
 鳥谷は巨麿と共に村人の案内で、「ピラミッド」とその周辺を回っていたが、「僅二間に三間位の長方形の一段高き盛土」の所まで来た時に巨麿は立ち止まったのである。
「翁(原田註−巨麿)は天を仰ぎ地を相して熟視し、そして黙祷を続けてから独りで肯かれ、矢張此処だと許り、これが余等には何んの事やら不思議でならぬ、其れは其筈で、今日迄誰れにも見せぬ古文献を独で調べて来ての対照探査であるからである、そして此処に目標を建てよ統来訪神と後に記されよ、前の野月の二ツ塚には十来塚と書くべしと村長に話された、(中略)余は密かに掌の内で十の字を書いて若しや此ではないでせうかと聞くと、今少し黙れ黙れの御託宣である。」
 これがいわゆる「キリストの墓」発見のいきさつである。この時点では現地にキリスト伝説などはなく、後にいう「キリストの墓」に十字架など立っていなかったということは鳥谷の叙述から見て明白である。また、記録によると、巨麿は旅行中、その塚が「キリストの墓」だなど自らの口からは言わなかった。鳥谷によると、奥州におけるキリストの足跡は「吾等の神代史蹟探究と、竹内翁の後に示された古文献」によって明らかにされたものであり、言い換えるとキリストに関する古文書なるものは巨麿がこの旅行から帰って後にようやく公開されたというのである。


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