暴かれた真光日本語版
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2004年11月09日(火) キリストの墓の真実(6)-(10)

485 キリストの墓の真実(6)―― ムー大陸の世界(a) 2004/12/23 14:42

『真光』誌 78年1月号P48-53 (岡田K珠派発行)
『ムー大陸の世界』白上○徳
■キリスト教の源流
 本誌連載第六回(169号)において、キリスト教の十字架のマークが、実は、ムー大陸における〈宇宙力のシンボル〉から出たものであることを記しました。
 それと同時に、キリスト教の”教え”そのものも、ムーの宗教から発している――とチャーチワードは述べています。
 昔から、宗教としてのキリスト教の研究とともに、イエスキリスト自身についての研究が多くの学者達によって行なわれてきました。
 しかし、われわれが現在知り得るのは、処刑される数年前からのキリストの姿であって、それ以前の、少年時代、青年時代のことについてはほとんど知られていません。
 つまり、その前半生は、まったくベールの、中にとざされている――といっても過言ではありません。
 この時代、一体、彼はどこで、何をしていたのでしょうか。
 このことについて、チャーチワードは、「カシュミールのレー市にあるへ−ミス寺院には、バーリ語で記された、キリストに関する記録がある。
 それによると、キリストはユダヤを出て、エジプトにわたり、そこに二年ほど滞在して、古代エジプトの宗教や、哲学思想を学んだ。彼が特に影響を受けたのは、エジプトにおける〈オシリス教〉であるが、この教えの元祖である、オシリスという人は、二万年ほどまえに、大西洋上に在ったアトランティス大陸に生まれた人であった。
 彼は、青年時代、太平洋上に在ったムー大陸に行き、そこで、本務的ムーの宗教を学び、〈導士〉としての資格を得て、アトランティスに帰国し、神官の長として、子弟に教育を
授けた優れた人物であった。
 キリストは、このオシリスによって述べられた教え、すなわちアトランティス大陸から、エジプトに伝えられたものを学んだのであった。
エジプトで学んだ後、キリストはさらに、インドの諸都市を巡歴し、仏教およぴ仏教以前の印度の宗教を学んだ。
 ついで、チベットに入って、留ること十二年、その間に、ムー大陸から、この地に伝えられていた、宗教、哲学、超科学などを学び、彼自身の宗教の本体を完成し、大きな自信と使命観をもって帰国し、キリスト教の宣布に全生命を捧げた。」
 このように、チャーチワードは述べています。


486 キリストの墓の真実(7)―― ムー大陸の世界(b) 2004/12/23 14:45

 一説によりますと、チベットに学んでいたキリストは、未だ、自ら確信のもてる心境に到達することができず、これまで披が巡歴してきた土地の者よりも、一層純粋で高度の教えが、東方の地にあることを知って、ついに長駆して、日本に渡来したというものです。
 日本に来たキリストは、現在の青森県三戸郡新郷村戸来に住み、日本古来の宗教の中に、ついに、彼が長い間求めていた〈真理(神理)〉を発見し、この確信をもってしばしば母国との間を往来し、自己の宗教思想を人々に伝えた後、前記戸来の地に没したとしています。
 私は五年ほどまえ、この地を訪ねましたが、そこには白い十字架が、向かいあって立っていました。
 写真(図2)の向かって右の十字架がキリスト、左の十字架が兄キリストの身代りとなって十字架上で死んだ弟イスキリの墓である―とされています。
 なお、十字架の近くに立てられている説明板には、次のごとく記されていました。
 「イエスキリストは二十一才のとき、日本に渡り、十二年の間、神学について修業を重ね、三十四才のときユダヤに帰って神の教えについて伝道を行ないましたが、その当時の
ユタヤ人達はキリストの教えを容れず、かえってキリストを捕えて十字架に磔刑に処さんと致しました。
 しかし、偶々、イエスの弟イスキリが兄の身代りとなって、十字架上の露と果てたので
あります。
 他方、十字架の磔刑からまぬがれたキリストは艱難辛苦の旅をつづけて、再び日本の土を踏み、この戸来村に住居を定めて百六才の長寿を以て、この地に没しました。
 この聖地には、右側戸来塚にイエスキリスト、左側の十代墓に弟イスキリをまつっております。以上はイエスキリストの遺言書によるものと、いわれております。」(図3参照)
 このキリスト日本渡来説は一般には、まったくの〈荒唐無稽〉なこととして、一笑にふされています。
 しかし、世界の学者達がいまもって解明できない、キリストの全生涯が明らかとなるときまで、このことも決定的に否定することはできない問題であると私は思います。
 宗教人としてのオシリス、キリスト、シャカ、マホメット、道徳家としての孔子というような人々は、天帝より、特に選ばれてこの世に送られた<天使>で、彼らは天なる父にかわって人類に、その正しい道と、絶対の幸福を得る道を教える使命を与えられました。
 このように、すべての宗教道徳は、一つの起源から発生し、それぞれの場所や民族性に応じて もっともふさわしい表現をしました。
 この意味では、全ての宗教は、ムーの宗教の流れを汲むものであり、大きな流れの一部分にすぎません。
 前に記したような人々は、それぞれ霊感によって、天の父の命をうけ、大字宙の真髄にふれた人々でした。
  □
【解説】この頃は、S界真光文明教団の代表権をK珠氏とS口氏が争っていた。


487 キリストの墓の真実(8)――別冊歴史読本1996(a) 2004/12/23 14:46

【参考図書】
[1]「古史古伝」論争(別冊歴史読本特別増刊14 第18巻第24号) 新人物往来社1993.8
http://members.at.infoseek.co.jp/Accord/BIGLOBE/WADA/nip09180.htm
[2]古史古伝の謎(別冊歴史読本64) 新人物往来社1996.8
[3]危険な歴史書「古史古伝」“偽書”と“超古代史”の妖しい魔力に迫る!
(別冊歴史読本54号) 新人物往来社 2000.10
[4]徹底検証古史古伝と偽書の謎――「偽り」と「謎」が織りなす闇の歴史を暴く!
(別冊歴史読本77号) 新人物往来社 2004.3
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 『古史古伝』を正しく理解するには、別冊歴史読本の古史古伝特集号をお勧めする。上記のうち[4]は現在市販中で、他の絶版3冊は公立図書館で閲覧できるし、net古書店でも購入できる。ただし、[1]と[2]は内容はほとんど同一である。
 [1]・[2]では東日流外三郡誌の真贋論争が掲載されたが、裁判で和田氏の創作との判決が下りたため、[3]以後では掲載されていない。
 この参考図書から、キリストの墓に関する記事を紹介していく。
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文献[2]古史古伝の謎(別冊歴史読本64) 新人物往来社1996.8 P92-101
『竹内文献』と日本のキリスト伝説 中島 渉・作家
『竹内文献』にルーツをもつキリスト伝説は、世界恐慌の予兆が生んだ幻想だったのか――新興宗教界に多大な影響を及ぼした『竹内文献』との出会い。
モーゼ、キリスト、ブッダまでもが日本を訪れていたという伝説の深層を探る

◇さまざまな伝説
 たとえばイタリアはトリノの洗礼者ヨハネ大聖堂内にある黒大理石造りの円形の王室礼拝堂には、イエス・キリストの亡骸を包んでいたとされる亜林布が納められている。古びて象牙色になった亜麻布の表面には、口髭をたくわえた長髪の筋骨逞しい男の死体のような印影が浮かんでいる。古来よりその印影こそゴルゴダの丘で磔刑になったイエス・キリストを包んだ聖遺物として、さまざまな神秘の物語の種を蒔いてきた。
 当初は“マンデイリオン”と呼ばれた聖骸布は、さまざまな伝説を生んだ後に、14世紀になってようやく地上にはっきりとその姿を現わすのだが、以来今度は論争の種となってゆく。それが描いたものなのか、それとも亡骸が転写したものなのか、転写したとすればどのようにして転写したのか、亡骸が転写したのだとしてはたしてイエス・キリストのものなのか……論争は今日もなおつづいている。伝説によれば、聖骸布はテンプル騎士団によってイスラエルからヨーロッパへと運ばれたらしい。
 聖骸布をめぐる伝説と論争、あるいは科学とロマンは、やがて1969年のトリノ委員会による科学的調査へといたる。枢機卿や司祭といった聖職者だけでなく、科学者たちを含めて委員会を結成し、科学の眼によって聖骸布を鑑定しようというプロジェクトだ。1977年になるとアメリカで聖骸布研究合議が行なわれ、翌年からは国際聖骸布会議が開催されて、さらに本格的な聖骸布調査がスタートした。
 また、ウィーンのホフブルク宮殿に安置されている一本の槍――“ロンギヌスの槍”と呼ばれるそれは、ゴルゴダの丘でローマ兵カシウスが十字架に磔刑にされたイエス・キリストの脇腹を突いたという伝説に彩られている。そして槍を手にし、槍にまつわる秘密を解いた者は世界を支配征服する力を授けられる――という伝説に。さらにべつの伝説によれば、ウィーンで美術や建築を学んでいたヒトラーは、ある日宮殿で槍と出逢い運命の転機を直感した。ヒトラーばかりでない、ナポレオン・ポナパルトもまたロンギヌスの槍に魅せられた一人だった。
 ところでカシウスが突いた脇腹から滴るイエス・キリストの血を受け止めたのは、彼自身が最後の晩餐に用いた杯であったという。この聖杯(グラール)伝説はなによりもアーサー王と円卓の騎士をめぐる物語を彩るモティーフとして知られる。聖骸布、槍、聖杯……イエス・キリストの最後をめぐるさまざまなオブジェが伝説を胎生してきた。


488 キリストの墓の真実(9)――別冊歴史読本1996(b) 2004/12/23 14:47

 これら以外にも、聖母マリアにまつわる伝説を加えるならば<キリスト伝説>は膨大な数にのぼるだろう。ルルドの泉やファティマの預言などは、聖母マリア信仰/伝説に属するタイプに分類できよう。ルルドの泉のケースは治癒=奇蹟で、ヨーロッパ中世を覆った聖者の奇蹟の面影さえ浮かんでくる。
 なかでも12世紀はとりわけ奇蹟が氾濫した時代で、土俗的な伝説や信仰と結びついた塚があったりすると、たちまちそこは忘れられた聖者の墓に様変わりしていった。だが、それなのに……奇妙なことになぜか、キリストの墓やキリストの遺骸にまつわる伝説は伝えられていない。
 ところがこの日本に、イエス・キリストの墓があるという。キリストばかりか、モーゼやプッダの墓までがなぜか日本にあるのだという。日本の(キリスト伝説)はマンデイリオンのように千年を遡るようなものではなく、きわめて新しい。せいぜい数十年の昔に創作されたものだ。そして日本におけるキリスト伝説はすべて、夥しい古史古伝群のなかで最も有名な『竹内文献』にそのルーツを求めることができる。
 ではなぜ、『竹内文献』がキリスト伝説を生むこととなったのか。

◇『竹内文献』とはなにか
 そもそも『竹内文献』とは、単体の書物のことではない。それは越中の婦負(ねい)郡神明村宇久郷(くごう)の赤池神明宮の神主だったという竹内一族に伝えられたとされる文献およぴ古器物の総称だ。そこには神武以前のウガヤ王朝の歴史、アトランティスのオリハルコンを想わせる謎の金属ヒヒイロガネや古代における飛行空母「天之浮船」の存在、ムーとアトランティス大陸(ミヨイ・タミアラ)の記憶、ピラミッドの日本発祥……など、伝奇SF顔負けのマッド・エンサイクロペディアのごとき内容が記されている。
 継承者であり『竹内文献』を世に出した人物であったのは竹内巨麿(きょまろ)だ。竹内巨麿は自身の著作に記した出自によれば、明治8年(1875)に庭田権大納言従一位伯爵源重胤(しげたに)と藤波神宮祭主正二位子爵大中臣光忠の娘との間に生まれたという。もっとも、特高資料によるならば巨麿は、明治7年(1874)に富山県新保村の寡婦杉政みつと出稼ぎ中の石川県の木輓職人森山勇吉の私通の子として生まれ、農夫・竹内庄蔵の実子として出生届けが出されたことになっている。
 ことほどさように、巨麿の生まれからして深い謎に包まれていた。
 明治25年(1892)になると巨麿は、祖父・竹内三郎右衛門から、墓地に埋めてあった宝物を託される。この宝物が後に『竹内文献』とされるようになる一群のものだったようだ。そして巨麿は宝物ともども東京に出て、御嶽教初代管長・鴻雪爪(おおとりせっそう)の門人となり、宗教界に一歩を踏み入れてゆく。二年後になると巨麿は京都の鞍馬山での修行を決行するが、その間に祖父から託された宝物を鴻雪爪が開陳し、そこに記された神代文字を解読して『竹内文献』伝説の核が形成されることになる。
 鞍馬山での修行を了えた巨麿は、明治43年(1910)、現在の北茨城市磯原に皇祖皇太神宮を祀り天津教を興す。ちなみに巨麿が鞍馬山での修行を開始した明治27年は日清戦争が勃発した年であり、天津教を興したのはハレー彗星が接近し日本が韓国を伴合した年であった。巨麿が鞍馬山を下りて磯原に辿り着くまでの間に、日本と世界はどう動いていたか。大正3年(1914)にヨーロッパで第一次世界大戦が勃発、大正9年(1920)に株が暴落して恐慌が起こり、大正11年(1922)にはロシア革命が発生している。ファナティックな神代史運動を眺めるとき、こうした時代背景を把捉しておくことは重要だ。なぜなら古史古伝/神代史運動とは、このような時代の無意識のなかでこそ誕生した運動にほかならないからだ。


489 キリストの墓の真実(10)――別冊歴史読本1996(c) 2004/12/23 14:48

 やがて大正末期から昭和初期にかけて、巨麿は徐々に『竹内文献』の公開をはじめてゆく。特筆すべきは昭和3年(1928)の公爵・一条実孝立ち会いのもとでの『竹内文献』開封と、翌年の酒井勝軍による 『竹内文献』調査だろう。一条は伯爵・上杉憲章とともに、体制側における古史古伝/神代史運動の強力な共鳴者であった。後に中里義美の設立する「神日本社」の顧問にも就任している。一条のようないわばエソテリック・エスタブリッシユメントが開封に立ち合ったことで、『竹内文献』はその世界で急速に認知されてゆくことになる。また、酒井勝軍と『竹内文献』が出会うことによって、(キリスト伝説)が生まれる素地が形成されることになったからだ。つまり――イタリアでファシストが政治権力を握りつつあった時期に『竹内文献』は浮上し、世界恐慌の予兆が世界を覆う時期に酒井が『竹内文献』と出会ったことになる。
 もしもこのような時代状況でなければ『竹内文献』は出現しなかったのではないか――そう考えたりするのは、想像がしすぎるだろうか。

◇謎の酒井勝軍
『竹内文献』と出会い、そして日本の<キリスト伝説>胎生に重要な地位を占めた酒井勝軍とは、はたしてどこの何者なのか。
 酒井は巨麿自身が記したのと同じ1875年に、山形に生まれている。青年期にキリスト教に入信し、明治39年(1906)には特異な礼拝集団である讃美奨励団を創立し、団長となっている。讃美奨励団はその後、日本讃美団からさらに国教宣明団と改称し、神代史運動にきわめて大きな影響をあたえることとなる。
 大正7年(1918)、酒井はシベリア出兵に通訳として従事する。当時のシベリアでは『シオン賢者の議定書』によるユダヤ禍の嵐が吹き荒れており、酒井はその洗礼を受けて帰国する。そして大正13年(1924)になると、酒井はユダヤ禍論と日猶同粗論が混濁する奇怪な『猶太民族の大陰謀』なる著書を発表する。すなわち、彼は反ユダヤであると同時に熱烈なシオニズム礼賛者でもあった。
 昭和2年(1927)、酒井は陸軍の密命を帯びて、陸軍大佐・安江仙弘(のりひろ)とともに中東情勢の調査に旅発つ。パレスティナに赴いた酒井は、すっかりシオニズム礼賛=親ユダヤ主義者となって帰国する。この安江は幻の極東ユダヤ同家構想=フグ計画に関わったことで知られる人物で、同じ軍人でも四王天延孝(しのうてんのぶたか)とはまったく異質な、ユダヤ問題を冷静に見る眼を持っていた。そのような人物とともに中東を回った体験が、その後の酒井に少なからず影を投げたことは容易に察せられる。
 中東調査から帰国した酒井は、在英シオニズム組織に運動資金として二千ポンドを要求する。この酒井の突然の要求は刎ねられて実現しなかった。
 そして昭和4年、酒井は磯原の天津教を参詣し、そこで竹内巨麿と『竹内文献』とに出会う。酒井の著作によれば、シベリアから戻った後の彼はユダヤ問題に関心を寄せ、日本は猶太十二支族のヨセフ族(イスラエルの正系)の末裔であり、したがって日本にその証拠となる古代ユダヤの秘宝が伝わっているのだと確信していた。そのような酒井と『竹内文献』との出合いはまさに、運命的な瞬間であった。
 酒井は天津教の宝物のなかに「モーセの十誡石」を発見する。酒井はその著『参千年間日本に秘蔵せられたる モーセの裏十誡』に記している――「然るに今茲に、最も巧妙に又忠実に日本の重大なる国宝を秘蔵した一家が在る。それは1800年前、棟梁の臣と崇められた大忠臣武内宿禰の後裔で……如何なる物品が埋蔵されたかは当分秘密を要するものがあるので今発表するわけには行かぬが、……万国五色人祖神の神体として祀られたものが此度発見されたモーセの裏十誡である」と。
 神代文字を刻んだ三つの石は、モーゼの裏十誡・表十誡・真十誡であり、ウガヤ六十九代の時代に日本にやって来たモーゼが、天皇から授かった律法を石に刻み、ふたたぴ日本を訪れたときに天皇に献上したものだという。まったく凄まじいばかりのファナチィック・イマジネーションの爆発だ。


日記作者