暴かれた真光日本語版
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2004年11月07日(日) キリストの墓の真実(16)-(18)

495 キリストの墓の真実(16)――幻想の津軽王国(b) 2004/12/23 14:59

 巨麿の訪問前にキリスト伝説があったとすれば、先に現地を訪れたことのある鳥谷が巨麿に聞き返す必要もないし、巨麿が旅行中、それについて沈黙することもあるまい。以上のいきさつから推定できるのは次のような経緯である。
(A)巨麿は日本の某所に「キリストの墓」があると考えており、鳥谷など一部の信奉者にそのことを密かに告げていた。
(B)戸来村に至り、巨麿はそこで見つけた塚こそ「キリストの墓」にふさわしいと思った。しかし、その時点では、そこが「キリストの墓」だと断言するのを避けた。
(C)帰宅後、巨麿は戸来村に「キリストの墓」があるという証拠文書を発見(あるいは造作)した。そこで鳥谷に対し、「キリストの墓」発見について公表することを許した。
 以上の経緯であったとすれば、昭和十年八月上旬まで、「キリストの墓」は巨麿および『竹内文献」信奉者の頭の中だけにあったのであり、戸来村にあったのはキリストとは関係ない塚だったのである。古田氏があくまで昭和十年より前(寛政六年)の戸来村に「キリストの墓」があった可能性を主張されるのであれば、鳥谷の記録を凌ぐ史料価値を有する文献を探し出す責任が生じるであろう。
P211
■かくして歴史はくりかえす
『竹内文献』といえば、狩野亨吉による名論文「天津教古文書の批判(18)」に触れないわけにはいかない。その論文を執筆した時、狩野の手元にあった『竹内文献』サンプルは信奉者から持ち込まれた写真五点のみであった。しかし彼は「片鱗を似て全体を見ることは出来ないとの反駁あらば認めることを躊躇しない。しかしながら同時に又生命を取るには一箇の致命傷にて足ることを心得なければならぬ」として、あえてその鑑定結果を発表したのである。さて、その結果はいかなるものであったか。
「第一に文章は揃いも揃つて下手であり、肝心な語法語調も億万年を通して不変なるのみならず、誤謬は頑強に保持せられて共通永存してゐる。第二に筆跡は孰(いず)れも見事ならず、著しく近代風を帯びたる上に類似の点多く、一々別人の手に成るものと取れない。第三に所説は正史と矛盾するばかりか、明治以後漸く知れ亙つた如きことを平然として述べてゐる。依て追次此等の文書に就き、其文体、其書体及び其内容の検討を遂げ、悉く最近の偽造であることを暴露せしめたのである。」
私も以前、この論文について納得できない点を指摘したことはある(19)。しかし、今、「その結論を読み直す時、それがそのまま和田家史料群の鑑定結果だと称しても通用する内容であることに驚かざるをえない。和田家史料群事件は、まさに「竹内文献』偽作事件の再現だったのである。まさに「歴史はくりかえす」のである。ただし、それが悲劇としてか、喜劇としてかは後世の審判に委ねる他はあるまい(20)。
 なお、最後に一言しておかなければならないことがある。本論において私は古田氏に対して批判的な言説を述べてきた。しかし、重要なのは、古田氏が本来は優れた研究者であり、親鸞研究や、邪馬台国問題、倭の五王問題、好太王碑文問題、西王母国問題などに関する業績は、たとえその結論について万人の賛同するところとならなくとも、真に画期的なものであったということである。今や古田氏は和田家史料群事件にかかわることで、みずからの過去の業績をも無に帰しつつあるといえよう。望むらくは古田氏もまた反省悔悟してその妄を棄て、すみやかに学問の道の正しきに復帰せんことを。


496 キリストの墓の真実(17)――幻想の津軽王国(c) 2004/12/23 15:01

[註]
(1)昭和薬科大学奉職前の拙著『幻想の超古代史」(批評社、平成元年)では、私は『東日流外三郡誌」について偽書であるとしながら、その伝承としての価値をある程度は認めるという立場をとっていた。平成二年三月、私は古田氏に『東日流外三郡誌』が偽書と思われる所以を説明したが、そのすべてに反論され、結局は古田氏の研究に協力することを約束したのである。なお、古田氏がそのさい、私に口頭で語った偽作説への反論の一塊は『真実の東北王朝」(駸々堂、平成二年)に示されている。
(2)和田氏の写真盗用事件については「裁かれる『東日流外三郡誌』」(「季刊邪馬台国」51号、所収)参照。
(3)松田弘洲『古田史学の大崩壊」(あすなろ舎、平成三年)、藤野七穂「『東日流外三郡誌」の秘密とその問題点」(歴史マガジン文庫『北方の楽園みちのくの王国」ベストセラーズ、平成三年、所収)、斎藤隆一・「『和田文献」への七大批判」(平成五年五月二十八日・共同研究会資料)他。
  なお、以上の論者は触れていないが、私の調べたところでは『和田りく」という自署名(和田家蔵「天草軍記」などにそう称されるものあり)は明らかに江戸時代のものではありえない。「和田りく」は秋田家に生まれ、和田長三郎吉次に嫁いだとされているが、女性は他家に嫁いだとしても生家の姓を名乗るのは漢字文化圏共通の習慣であり、日本でも近世まではその習慣が守られていたからである(中国・朝鮮では今でもその習慣が守られている)。日本で女性が署名するさい、嫁ぎ先の姓を名乗るようになったのは、西欧式の民法の影響によるものであり、当然、その慣習が生まれたのは明治以降のことであろう。和田家所蔵の史料に、「和田りく」の署名を記したのは、近世の風俗・慣習にうとい人物であったと推定される。
(4)古田氏の研究を支援する市民グループの間からも、和田家史料群に関する疑念の声は調査の当初から上がっていた。最も熱心かつ実証的に和田家史料群集作説への反証を私たをにつきつけてこられたのは、仙台古代研究会の斉藤隆一氏である。しかし、私たちにとって最も衝撃的だったのは、昭和薬科大学文化史研究室の調査で発見された新史料「古代ギリシャ祭文」に、岩波文庫『ギリシャ・ローマ神話』(ブルフィンチ著、野上弥生子訳)からの引き写しがあることが、市民の古代研究会会員・水野孝夫氏らにより、指摘されたことであった(「市民の古代ニュース」平成三年九月号)。
  その時期から、古村氏は和田家史料群に関する発言を公式の場では控え、和田家に隠された史料の全公開を待つという態度をとられるようになったのである。
(5)安本美典「反皇国史観察の”異喘の史書”『東日流外三郡誌」はデッチ上げだ!」(「サンデー毎日」平成五年四月十八日号)、「『東日流外三郡誌」の筆跡鑑定」(『季刊邪馬台国」51号)、他。
(以下省略)


497 キリストの墓の真実(18)――別冊歴史読本2004 2004/12/23 15:03

文献[4]徹底検証古史古伝と偽書の謎――「偽り」と「謎」が織りなす闇の歴史を暴く!
(別冊歴史読本77号) 新人物往来社 2004.3
P234-239
『真贋の判定に果たす自然科学の役割』
斎藤努(国立歴史民族博物館助教授)
【要旨】「トリノの聖骸布」は、1988年に放射性炭素年代測定が行われ、95%の確率でBC1260年から1390年の間に作られたものと判定され、結果は1989年の科学雑誌『Nature』に掲載された。美術史、宗教史、文献史からもこれを裏付ける報告がある。
(本書は市販中の為OCRによる全文掲載を控えるが、一部を原文のまま紹介する。)
【原文の部分抜粋】
(P238)
 …現在残っている聖遺物として「聖十字架」「聖槍」「聖釘」「聖血」、変わったところでは「イエスの乳歯」「聖母の頭髪」「聖母の母乳」などがある。これらがことごとく偽造であったことは、一人の聖人の頭や腕が何十人分も残っていたり、キリストの「聖十字架」をすべて合わせるとビル一杯分の量になる、といった例をあげるだけで十分であろう。「聖骸布」として伝えられているものも数十枚確認されており、トリノの聖骸布はそのうちの有名な例にすぎない。

(P238-9)
 …旧石器遺跡捏造事件では、自然科学の関わり方のどこに問題があったのであろうか。旧石器遺跡の発見を主張する人たちは、遺跡で製品としての石器以外に遺物が出てこないことから、石器の出土した地層のみに基づいて、それが古い年代のものであると主張していた。それに対し、これらの遺跡に関わった自然科学の研究者たちは、その地層の年代を詳細に確定することに終始してしまった。つまり、視点がまったく同じ方向を向いていたことになる。これでは、異なる分野が関与することの有効性は発揮できない。捏造発覚前から、人類学や考古学、第四紀学の研究者からは疑問の声が上がっていたのであるから、もしこれら自然科学の研究者たちがその声に耳を傾け、別の視点からの研究手段も講じていれば、あるいはもっと早く捏造を明らかにできたかも知れない。なお、地層ではなく石器そのものを分析した例もわずかながらあったものの、それらの方法は原理や解析の妥当性に疑問がもたれている。
 偽書・偽文書の真贋判定においても、通常議論されるような内容の当否、整合性の有無のみではなく、字体や文体はもちろん、モノ資料としての墨・顔料・紙などを対象とし、また贋作作りの手法に関する研究も視野に入れて、自然科学を含む他の視点からの総合的な調査が必要であろう。自然科学的方法によれば、人文科学とは異なった視点からの、客観的で有用な情報が入手できる。ただし、旧石器遺跡捏造事件でわれわれが得た教訓に基づき、適用にあたっては、調査全体の中での位置付け、目的や手法、その方法の有効性と限界などについて十分に配慮しなければならない。
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<新刊紹介>
『日本の偽書』文春新書 藤原 明 (著)2004.5初版 714円
――キリストの墓に関する解説が詳しい


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