暴かれた真光日本語版
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2004年10月20日(水) |
宗教に入るひとの心が分かりますか? |
「宗教に入るひとの心が分かりますか? 新新宗教と精神療法」
■■■ 真光関係者集合!!(6)■■■ http://life.2ch.net/psy/kako/1018/10180/1018074522.html
390-393 〜405「宗教に入るひとの心が分かりますか? 新新宗教と精神療法」(石川 元+景山民夫 弓立社 1996年)を読んだ。「香川医大医学心理学教授で精神科医の著者が真光体験入信をレポート」 ttp://www.rirc.or.jp/shokai/96.html ttp://www.kms.ac.jp/~psycho/index.html
390 名前:読書ネタ1/3 投稿日:02/04/30 20:23 「真実BBS」No: 3902で紹介された 「宗教に入るひとの心が分かりますか? 新新宗教と精神療法」(石川 元+景山民夫 弓立社 1996年)を読んだ。「香川医大医学心理学教授で精神科医の著者が真光体験入信をレポート」 っていうのだね。関連リンクは ttp://www.rirc.or.jp/shokai/96.html ttp://www.kms.ac.jp/~psycho/index.html
本の説明と感想を書くよ。
まず、石川氏が真光体験入信するまでの経緯と本が出来るまでの経緯について。 発端は1979年4月、石川氏が診た患者に真光の信者がいて患者の母親も信者だった。 「真光教が発症にからんでいると思われた何人かの患者をみたことがあると述べると、 母親は、研究だけでは神様のことはわからないと、私に講習会への参加を勧めるの だった。」(P123) それで、同氏は「以前、ある真光教信者の用いる言葉を妄想の一部だと思っていたら、 実は教団の用語であることが分かって混乱した体験があり、知識を得ることが必要だと 思っていたので、たとえ物理的にせよ宗教を内部からみる一つの契機になるかもしれないと 考え、かなり勇気のいることだったが、思い切って受けることにした。」(同)そうだ。 受講は同年5月。そのため、体験レポートは古い話になる。
その後、レポートがユニークだったので書き下ろしをお願いしたいと編集者に言われ、 企画が発展し作家の景山民夫氏(今は故人)と対談して収録、加筆、出版の運びと なったそうだ。 なお、編集者の目に止まった石川氏の文は「『真光教の体験的理解』その顛末」(小田晋編 『宗教・オカルト時代の心理学』(至文堂)所収だそうで、この本(「宗教に・・」)にも 改変して採録されている。 (この辺の経緯はP6)
経緯についての感想。 一冊の本が出来るきっかけに組み手の発症があるのか。あちこちでお騒がせしてるんだな。 ため息が出るぞ。 景山民夫氏との対談(第一部)の感想はスレ違いになるので飛ばすよ。
391 名前:読書ネタ2/3 投稿日:02/04/30 20:24 第二部が「新新宗教への三つのアプローチ」とあって、「真光教の体験的理解」が 載っている。初級研修会受講に至る経緯(上記)や真光信者の症例の治療体験が語られて、 講習会(初級研修会)の内容と石川氏の感想へとつながっていく。
講義の要点はよくまとまっていると思う。初研受講者の予習用ノートに使えそうだ(苦笑)
それで、石川氏の感想は以下のようなものだった。(「」内が本からの書き写し) =============================================== 一日目 「講師が“科学的”ということを強調すればするほど、表面的なつじつま合わせに 見えてきた。段階をふんで説明してゆくものの、途中で突如、論が飛躍するのである。 つまり、用語は科学の成果を大幅にとり入れ、論の運びは科学を無視する。つじつまの 合わぬことは、詳しい説明を避け、「……だそうです」「……とおっしゃっています」と いった伝聞体で語られている。また、抽象的・空想的な事物を、ごく身近な例で説明する 傾向も特徴的であった。」(P138)
二日目 「いずれにせよ、受けた講義と精神病理学とが同じくらいあいまいで、単純な つじつま合わせにみえたのは興味深いことであった。症例の観察から離れ、概念化 された用語を乱発して臨床を論じているような精神病理が“科学的”であるとするなら、 真光教の講義と同じくらい“科学的”であるにちがいない。もっとも、そうした 私のおもいは、単に真光教を身近なものとしてみようとする私の努力や、講義を 何とか精神病理の公式と結びつけようとした私の作為的な“想念転換”によるもの かもしれない。」(P143)
三日目 「医学者の文献が本来の論文の意図とは異なって援用されていたように、ことだまの 説明は、語呂合わせや言葉あそびの世界を思わせる。馬鹿らしいといえばそれまでだが、 そのつじつま合わせたるや目をみはるものがある。これらを“馬鹿らしい”と一蹴したり、 “馬鹿らしいがとても面白い”と考える能力の欠如した人が、思わぬ影響をこうむって 真光教入信を契機に発病するのではないかという連想が講義中私の頭の中をたえず支配 していた。」(P145)
392 名前:読書ネタ3/3 投稿日:02/04/30 20:26 (三日間の講義を終えて)変化はなぜ起きなかったのか 「真光教によって症例がどう影響されたかを追体験するというとてつもない命題をとく鍵は、 なぜ私が真光教の影響をうけなかったかというところを出発点とするしかなかった。 睡眠、薬物、感覚遮断といった積極的な働きかけを補助物とすることなしに講習がおこなわれ ているという点から考えて、先述した“言葉あそび”のような講義内容が病的思考に似ていると いった点が、何らかの問題究明の手がかりになるのではなかろうか。」(P147) =============================================== 読んだ感想。 「段階を踏んで説明してゆくものの、途中で突如、論が飛躍するのである。」について。 講義の内容は結構覚えているつもりなのだけれど、論理展開についてはどうだったか 碌に覚えていない。ということは、飛躍した論を理屈で理解できず丸飲みしていたのかも しれないと思った。恥だなあ。 「言葉あそび」に同氏が着目しているのが新鮮な驚きだった。言葉あそび的な教えが 多いのは確かだね。症例に影響するかどうかはわからないが、御聖言にも言葉遊び的な 神示は多いし、日常生活の中で組み手の思いや考え方の基盤として語呂合わせは大分 入り込んでいると思う。(影響については霊動霊査のショックや教えの内容や道場での 集団心理も考慮した方がいいんじゃないのかな) それから、第三部「「宗教と科学」そして「宗教と精神療法」を考える」」 について。 マインド・コントロールに関する話が甘すぎるのではないかと思う。精神療法で行う マインド・コントロールと宗教のそれとの違いを言ってるが、説明不足ではないか。 一般的な精神科医(?)の発言のためか、カルト問題に関わっている社会心理学者、 聖職者等との認識の違いが大きいようにみえる。生き方を楽にするための、ちょっと した考え方の変更を示唆するアドバイス(と読んでいて、私には思える)と破壊的カルトの 用いるマインド・コントロールを同列に語って欲しくない。
393 名前:読書ネタ・まとめ 投稿日:02/04/30 20:28 以上は私の感想なので、見落とし・勘違いや抜き書きの不適切な部分もあるかもしれない。 関心を持った人は各自で読んでいただきたい(というか、私も人の紹介で読んでるんだな)。 そして読むなら、未読の人は西田公昭氏の「マインド・コントロールとは何か」(紀伊国屋 書店)を併せて読むことを勧める。破壊的カルトにおいて行われるマインド・コントロールとは、 この本に挙げられているようなものだ。
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