暴かれた真光日本語版
DiaryINDEX|past|will
ユダヤとエタ
崇教真光の教祖及び幹部は、皇軍の面汚しである。 最初、この外人信者のレポートを見て我が目を疑った。眼と腹が腐る教義。なんだと。何ということを言っているんだ。としか感想が出ない。外国人信者がインターネットで出した 崇教真光の皇室についての講演、研修メモ。「暴かれた真光」でも翻訳紹介されるようになったが、原文のH.P.を挙げておく。 http://ozemail.com.au^skyaxe/origins.htm
頁数は原文のNo
4/16<信者のノート覚書・要点>
16 ユダヤという名の起源はもともと日本語でエタだった。またイスラエルはいすずから来ている。いすずは三重県の聖なる河。 17 エタは日本のアウトキャストで、もともとは日本に来たユダヤの移民だった。
ここまでは、では真光の神は部落解放同盟の守護神かと思った。ところが読んでいくうちに4/16のメモ10−22及び14/16の「みおしえ」を照合すると。
ヘブライ語は日本の天皇からユダヤの民に与えられた言語である。モーゼは日本のプリンスで十戒は日本から来た。ヘブライ語は日本から送られたもので、歴史を通じてユダヤが迫害されるのは彼らのカルマである。旧約聖書はヘブライ語の翻訳である。日本のプリンスモーゼによってゾロアスターのゼンドアベスタから訳された。
ここまで来るとまさかユダヤのほめ殺し?でも待てよ。ちょっと待った。
ユダヤ→エタ。 ユダヤの王モーゼは日本のプリンス。ということは日本のプリンス→エタあるいはオリジン オブ エタと結局三段論法を使って言っていることになる。
何でもかんでも皇室から出たというところは、常なる霊的国防論でおなじみ。しかし皇室はユダヤの祖で、ユダヤ人をエタと言い切るところから雲行きが違ってくる。 皇国史観を説きながら、なんともいやらしい論法で皇室の権威のおとしめを、クククッと含み笑いしてやっていたのか。だから、あんな皇室に対する冒涜写真を平気で得意気にばらまいていたワケだ。そういうことか。「みおしえによれば、エタはエダから来ている。」(シンタックス?)というが、もうガイキチ論はどうでもいい。
自民党の村上参院憲法調査会会長も「労働大臣に就任できたのは教え主様の手かざしのおかげです。」と喜んで総理観桜会や大臣室にこういう教祖及び幹部を招待した記事を自分で教団誌に発表したのも、今は昔。ロクなことがなかったな。この宗教。生長の家のほうが、良かったのではないか。政治家が、この教団にかかわると初めは良くてもあのようになる見本であった。
いまいましい続き。
エタという言葉が、日本文化の中で、江戸時代の部落差別の人口的造語であることは誰でも知っている。しかし同時にどういう嫌らしい使われ方をしてきたかも我々はよく知っている。
こともあろうに、そういう言語に付着した心裡的嫌悪を、ユダヤ人と天皇家の双方に因縁づける底意地の悪さ。相当のものである。どちらも「迷惑被る」と一蹴するはずだ。まるでエセ同和の論法ではないか?
「エタって実は君たちのことではないの?」手かざし軍団に向かって言う言葉はそういう事だ。いつも、けがれ、けがれと言ってるからに。
そうか、こういう教義ユダヤとエタと皇室のつながりを固く信じて、疑うこと無くんば、ますます手かざしで元気になるということだな。これは上級研修のメモだ。と元外国人信者は書いておった。
皇室の権威、ノーブルな存在を、おとしめてまで、ぴかぴか元気になりたいものかね?
普通の歴史をウソと信じれば、それが元気のもとで、手かざしもますます冴えるということか。
防衛庁戦史史料室に保管されている陸士34期生名簿と、スティーブアンドユミ・アラートン夫妻の、スペイン語版のより詳細な「真光ーある洞察」の原文を照合すると、実に乱れた家、岡田光玉の家の家庭崩壊のありさまが浮き彫りにされてくる。
昭和三十六年十月 第三十四期生会々員名簿 岡田竜道(良一) 2−2Gi 家族 妻亡 二女(長嫁 次女幸子)
http://www.ozemail.com.au/^skyaxe/spanishsite.htm
LA VERDAD SOBRE Sukyo Mahikari Autores: Steve y Yumi Allerton 5/32 Nota;(ノート) 2) Koko (Sachiko) Inoue fue "adoptada" ya de adulta por Yosikazu Okada こうこ(さちこ)井上は成人してから良一岡田の養女となった。
英文"Mahikari an Insight"でもスペイン語版と同じく 2)Kouko(Sachiko)Inoue was 'adopted' as an adult by Okada, こうこ(さちこ)井上である。
陸士名簿は1961年10月現在の記録である。
「暴かれた真光」には1957年前後、岡田良一は妻を離縁と、救世教幹部同僚から指摘されている。
妻を離縁して4年後に書かれた同期生名簿の次女幸子とは、実子で幸子という人物なのか。それとも養女にきた甲子(幸子)を指すのか。
しかしこの同期生名簿をすなおに見ればずっと同居して今は亡くなった妻が、岡田光玉との間に2人の女の子をのこし、長女は嫁に行って別居だが、次女は幸子といって、父娘2人だけで住んでいるという家族構成だ。なぜ、妻と長女の名は書かないで、次女だけ幸子と書くのか。不自然である。
陸士名簿の額面どうり、幸子は血のつながった娘であったとするならもっとおぞましい可能性も出てくるが。成人してから養女にきた。と、くどいほど、「成人してから」がフレーズとして入れられるのも、淫行条例を意識したような感もあり、はたして何才だったのだ?養女にきたのは「成人してから」だと、付き合っていたのは「未成年」からと捉えるのが普通である。「成人してから」が無ければ、そうはとらない。まあ、家庭不和があったということは、よくわかる。
No680で書いたように、エタと皇室を因縁づける、特異な日ユ同祖論の教説を、上級信者にダケ説いていた、あきれた団体・崇教真光。
岡田甲子の正体を確かめるには、光玉の死後、自動的に発生する私的財産の相続人は、誰と誰であったかがわからないとだめだ。
代表役員地位保全事件では、岡田甲子という名が「債務者名」として使われている。だが陸士名簿記載を照合して(参照No707、No665)教団のうわさ話より、光玉自身による物証、 陸士名簿を信頼すれば、甲子は、戸籍名は幸子であり、代表役員地位保全事件でも、「岡田幸子」とならなければ偽証となる可能性も出てくる。
で、養女なのだから、光玉死亡時、私的財産がどれだけあったか知らないが、家屋・不動産の類、有価証券、現金など、二人の娘(長女と幸子)が、きちんと相続しているのか?
まさか実子の相続権まで、教団幹部がよってたかって取り上げたとは思えないが
「1957年前後 妻離縁」 (「暴かれた真光」「崩壊しつつある真光の基礎」6頁) という情報は、光玉死亡後の紛争を知りたい人にとってまことに重要な項目である。
なぜなら
1957年前後、本妻が離縁された。←救世教同僚の証言。
1961年10月、岡田本人は、妻離縁のタイミングからして、或いはまだ生存中かもしれないのに、同窓名簿に「妻死亡」と書いている。
この2点から、長女は自分の母親がたたき出されて、幸子がのり込んできたのを、心良く思うはずがなく、光玉のような著名人の死亡では、なおさら、教団の有名な跡目争いとは別に、 実子長女と甲子の間に、財産相続争いが、ふつうは展開されると思うが。(オフィシャルな教団資産でも甲子側は熾烈であったのだから)
どうして長女と妻の存在は、1961年〜1974年6月23日光玉死亡に至るまで、都合13年間、ひたすら抹殺されてきたのか?
甲子の元の本籍・戸籍の解明は、教団紛糾防止には、本当は昭和50年当時、もっとも必要なものだったのである。
Top
日記作者
|