暴かれた真光日本語版
DiaryINDEXpastwill


2004年04月22日(木) 082 gn

--------------------------------------------------------------------------------

教祖用御み霊
 
「御霊を開けると死んでしまう?」すると、そういう所謂、「祟り」が怖くて、殆どの信者さんは、言うことを聞いてきたのですね。わたしは最初、祟り教真光と教団名を読んでしまったのですが、いろんな材料が出てくる昨今、この方があたっているのではないかと苦笑。あれやると祟る、これやると祟る、会館に来ないと祟る。こういうのをタブー、禁忌といいますが、それで人の行動をタイトに縛ることは可能ですね。

わたしは真光の神が祟るというなら、そういう威圧方法も、信者を制していく手法にあるだろうと思いますが、ここが大変ずるいとおもうのは、それを「あなたの先祖が」と今行動をタブーによって規制されんとする相手信者の死んだ身内のせいにかえしていくことです。真光に関する英文を、英語の達者な友人が訳を助けてくれましたが、友人は英文しか知らないからスッキョウと今も発音しています。

私が教団の預金通帳Noまで書いてある資料を出すのも、これが俗人は知っていて、信者さんが知らないというばかりではなく、「おみたま」それも「教祖用おみたま」の写真が、このような裁判の資料にでかでかと出ていたからです。

それなのに一方では、個々の弱い人たちに対し、「開けると死んじゃうよ」と言う。「教祖用おみたま」でさえ、司法関係者が手で開いて「ああ、中に字が書いてありますね。」など確認している。信者に言っているとおりだったら、もうその時点で、「教祖用おみたま」を裁判所に見せた岡田甲子以下幹部全員、その後死ぬほどの、ばちあたり続けの「苦難の道」があってもいいのに金はもうかった。

「おみたま」裁判所には中味まで見せ、信者には「開けると死ぬ」 それで不幸が起こったか、起こらないかという、いかにもこまされた思考回路ではなく、この相手によって態度を変える落差に注目するとはじめて、霊が霊がという心配から、憑き物がおちるように、離れるのではないかとおもうのであります。人をばかにするのも、いいかげんにしろと。日本民族の精神性の質が落ちると。

「教祖様用おみたま」は信者の方々にとって御神体なのですから、正しく知りたいところだと思われます。私が詳しいのではなく、中外日報という当時の宗教新聞に詳しく出ていたというだけです。宗教関係者なら皆、目を通している。いってみれば業界紙です。しかし宗教ですから、他の記事もまじめです。

先にご紹介した宗教法学会の、これは法曹関係者の雑誌ですが、そこでは、おみたまについて、報告者の大野正男弁護士は、「二代用の御霊」と「父の御霊」の種別を挙げておられます。誰から誰の手にわたり、それはどういう指示だったか。後継者はどっち?の争点となるしるしですから。ところが、中外日報で関口氏側が出した資料は、もっと込み入っております。

中外日報・昭和57年9月3日掲載の、「7月17日、18日の両日、発表に出席していた本部局部課長、方面指導部長に、文書によって確認し、署名、捺印を求めたもの。資料1」という文書写真が出ています。そこにこう書いてある。

「6月13日朝、父(初代教え主)にご神前に呼ばれ(中略)叱られたとおっしゃった。そして、父がかけておられた『父の御み霊(ペンダント型)』を私(恵珠)にかけて下さった。私が、もしお父様がご昇天されたら後はどうしたらよいでしょうかとお伺いすると、『二代は関口さんにお願いしなさい』といわれ『二代様用の御み霊』をお預かりしました。父は続けて、『この御み霊は、二代、三代と続くものである』とおっしゃいました。いつまでもお預かりしていると怖いので早くお渡ししたいのです。皆さん、私の言っていることをわかってください。私はこのような大変なことですから、私情を交えないでお話いたしました。父は三つの御み霊をかけておられました。一つは、ラーム氏から頂いていた分、今一つは私がおかけしている父の御み霊です。そして父は、パリに行かれる前に、二代様用の御み霊を、私におかけになって『もし何かあったら二代目を嗣ぐように』と言われました。そして無事に父が帰国なさった時、『預けておいた御み霊を返しなさい』と言われて、二代様用の御み霊をお返し致しました。私がおかけしている御み霊は、父の御み霊であって二代様用のものではありません。これは大変なことですから私情を交えずにお話致しました。以上右のとおり相違ないことを認めます。」

に続き課長・部長の署名・捺印がある。これが写真で出ている。ここから確認できることは、光玉はおみたまを3つ首にかけていた。2つについては裁判資料でもおなじみだが、ラーム氏から頂いていた分というものが、外人の名前であるので奇異だ。しかし甲子氏によればそれも大事なおみたまであるらしい。ラーム氏とは、では、外人の霊能力者なのですか?そこらへんは、信者の方のほうが詳しいでしょう。

教祖用おみたまのことでもありますし、突然ラーム氏っていうのが奇異だったので長い紹介をしました。その後の解説によれば、こんなしおらしい感じでは勿論終わらなかった。次に実際の御み霊わたしのトラブルが書かれている。

宗教法学会第5号(1986,11)には「御霊」に「おみたま」とルビがふられており、教団にとって格別の意味をこめられたものと解釈しています。法学会第5号に拠れば、甲子氏証言として、

「先代が亡くなる10日前の6月13日の朝に私は先代に呼ばれた。(中略)そこで私は、初代が怯えておられるのでこわくなって、『お父様にもしものことがあったら、どうすればよろしゅうございますか』と尋ねました。そうしたら初代は、『私に万一のことがあったら、二代は関口さんにお願いせよ』こう言われました。(中略)このように私は二代用の御霊をお預かりしています。おそろしいことでございますので、早く関口さんにお渡ししたい。」

「こういう風に甲子さんは皆にその席上(昭和49年6月23日初代、脳溢血で死亡後2日目の通夜の席。幹部50人くらいを集めた席上。)で述べたというのであります。幹部50人がそれを直接聞いておりましたので、だいたい正確にその話の内容を復元できます。そしてその翌日、初代の遺体の前で、甲子さんから関口さんへ二代の御霊というものを授与されるのであります。」

*裁判所は幹部50人という証人もいることから、甲子氏は確かに通夜に幹部を集めて「二代は関口さんと初代が言った」と確認したと、それで「だいたい正確にその話の内容を復元できます」という報告になる。この詳細を補う意味で「中外日報」記事をあわせて読むと、もっとはっきりする。

「中外日報・昭和57年9月3日号」に拠れば、「恵珠氏は二代用の御み霊を預かっているので怖いから一刻も早くお渡ししたいとして、その場で渡そうとしたが、その時、夜の11時を過ぎていることもあり、関口教え主が「もう遅いですから、明日、神殿で初代様のお柩の前でお受けしたい」と提案し、出席者全員の賛同を得て、翌26日に行われることになった。」

*通夜の重大発表は6月25日。特筆すべきは、甲子氏は大変怖がっていたということで、権威ある宗教者という感じはしない。非常事態におろおろする普通の女性に見える。

記事は続ける。
「26日早朝、上級幹部らは2階神前広間に集まっていた。ところが幹部を一旦2階から退出させ、恵珠氏の側近である有間たまえ経理部長と富田(萬美)秘書課長の二人のみが立ち会い、御み霊渡しが行われ、当日出席した幹部等は重大な立ち会いの席からはずされてしまった。」

「全幹部への二代発表が、急遽中止となり、変則的な形で『御み霊渡し』が行われたことについて、疑問を感じた幹部等は、中止になった原因を追求、その結果友森清晴警衛警備部長の指示によるものと判明する。その後の推移を見ると、この友森部長の”不可解な指示”が、後の謀反計画を想起させる。」

*甲子氏本人も6月25日までは「怖いから早く渡したい」との態度であったのが明くる26日に一変。幹部連をオミットし、富田萬美秘書課長・有間たまえ経理部長という側近だけを立会い人に限定し、関口氏にこっそり御霊を渡す段取りにしてしまった。関口氏への御霊は、この変更によって、あたかも私生児のような取り扱いをその後、甲子氏側にいちゃもんをつけられて辿る運命になる。しかし裁判所の確認によって関口氏にこれを渡すことは、「初代の意志」であったことは客観的に確かめられている。そして中外日報の記事では、関口氏側はこれを、友森清晴部長の陰謀と見ている。つまり甲子の黒幕。
 
この裁判が興味深い点は、病気を治す力があるといわれる霊能力者「初代の遺言・意志」などそれこそタタリなど恐れず、ねじ曲げてしまう、友森清晴部長という屈強なる精神の男によって、霊を恐れる岡田甲子がコントロールされてしまいには神示なる初代の直筆を法廷に持ち出して神示の勝手な解釈を財産争いの証拠にする点である。ここにこの裁判の醍醐味というか、霊とは何か、マインドコントロールによる恐れとは何かを考えさせられる材料がある。

教祖の霊能力など屁でもない男の画策によって、崇教真光は生まれた。そうであるのに、そこでは病気が治るといわれ、大勢の貧しい女達が集まり「こんなに病気が治りました」と言い合い、大金持ちの教団にのしあがった。

*なお中外日報記事に出てくる「富田萬美秘書課長」とは、海外の幹部信者が「岡田は救世教にいなかったか?」と問い合わせに対し「それはウソ話です」と答え、それが外国信者のサイトに富田のサイン入りで掲示されていた富田秘書課長と同一人物ではなかろうか。

*この人男ですか、女ですか?また側近有間たまえというのは、おそらく女性と思われますが、甲子氏も含めてこういういいなりになりやすい女たちが、友森氏のような黒幕男性の命令をよく聞いて、いかにも神がかり的ファッション で通してきたようですね。すばらしい作戦だと思います。人心工作のひとつではないでしょうか。満蒙政策で培った手法が生きているのか。教祖などより、友森氏のニヒルな感性と力量に興味がわいてくるものです。
 
「御霊渡しの怪」について中外日報・昭和57年9月3日は続けて次のように伝える。

「証言によると、友森部長は、初代教え主の亡くなった翌日、(24日)恵珠氏に対して、”重大なことの返事は、自分の承認なしには絶対にいうな”との旨述べているわけで、これではまるでフィクサー同然である。」


「24日に続いて、25日の遺言発表の直後も、友森部長と恵珠氏は、深夜の2時頃まで会談している。25日夜、自ら”二代は関口さん”という初代教え主の遺言を発表し、二代用の御み霊を持っていることに恐怖さえ感じ、早く関口氏に渡そうとした恵珠氏が、翌日の「御み霊渡し」、7月5日の虚偽登記へと大きく変節した理由を考えると、そこに友森部長の”意見”が大きく影響しているものと見られる。」

*関口氏側は、間違いなく甲子側の最大の敵を、友森清晴警衛警備部長と見ている。フィクサーと呼ばれる男とはどういう人間なのか。世界真光文明教団で警衛警備部長という地味なポジションについていたこの人物は、かつて国の作戦の中枢、陸軍省軍務局ー軍政の中心的部署と並ぶ陸軍省兵務局ー昭和11年軍務局から独立新設、の兵務局兵備課長をつとめた人物である。兵務局兵務課高級課員であり、そのポストの前任は、柳田元三・小松光彦・山崎正男・菅井武麿(武略字にて失礼)ときて友森清晴に至る。国を動かす中枢にいた男であり、兵務局長は阿南惟幾から始まり、友森の当時の上司は、田中隆吉の後をうけた那須義雄となる。

以上は動かしようのない事実であるが、ここから私の想像であるのでお間違いのなきよう。

このような経歴の男が、一介の民間人、関口氏の部下として警衛警備部長として使われることを自分に許せるだろうか?もし嫌なら無一文で出ていかねばならない。岡田だったら平気だった。それは同じ陸士34期の同期の男だから。岡田、通称光玉、本名良一が遺言として「二代は関口さんに」と伝えられた時、友森氏はどう受け止めたのか。「岡田、戦友を裏切る気か、俺達より関口を信用してたのか。俺達のことは考えもしなかったのか」と敗戦で軍歴のすべてを失い、巣鴨にまで入り、出てきたときは浦島太郎。ありついた教団という摩訶不思議な世界に身をおく他は行くところもなし。この安定した世の中で、もう一度放り出されるか、恥辱をうけるのか、もう御免だねと、だったらひと勝負と、通夜の席から岡田の遺言などクソクラエと反撃に出たのか。まったくの想像の域ですので誤解のないよう。友森氏は兵備課長であったが、合い並ぶ同時期の軍務局軍務課長は真田穣一郎であった。後の作戦部長真田少将である。ガ島将兵の撤収を主張し、インパール作戦の杜撰を指摘、反対した。真田元軍務課長は戦後一介の農民となってしまった。少将までいった人である。戦争については語らず、亡き部下の霊を慰める祈りの日々を静かに過ごしていたという。真光が説く皇国史観まがいはニセモノである。皇国愚弄史観である。こんなことを岡田は頭の中で考え続けていたのか?なぜ天皇とユダヤをエタに関連づける教義を上級メンバーの研修会で外人に説くのか。なぜだ?
http://ozemail.com.au~skyaxe/origins.htm
「ムー アンド エンペラー オヴ ジャパン」なんなのだ。この教説は。元帝国軍人の幹部が友森氏他大勢いるのに、なぜこのような教義を平気で説けるのか。そこに戦後失意のどん底に落ちた元将校たちの非常に屈折した思いを見るべきなのか否か。教団真光は、日本人の精神史を、中空になった戦後の「負」の部分を論考するうえで非常に興味深い題材である。戦後の激変に紛れ、日本人がみたくない日本人の姿をこの教団のすべての問題が語っているように感じる。

そのなれのはてが、「暴かれた真光」で既に知られる如く神経ガス殺人集団、オウム真理教とのリンクである。

防衛研究所図書館にある軍名簿には勿論、友森清晴の名はきちんと記載されている。防衛研究所資料に拠り、フィクサー友森のオフィシャルな経歴で、世界真光文明教団裁判の資料を補強する材料が1つある。それは教団の預金名義変更に関するものだ。

中外日報・S57・9・8
「犯罪事実(二)(三)については、教団の銀行預金を多額払い戻し、あるいは預金名義を変更するなどし、あわせて会計帳簿、重要文書類を隠匿したうえで、これら払い戻し金を費消したり隠匿し、あるいは第三者へ送金する等して領得されたものの中から明白なものに限って(二)の三井銀行の二億六千万円(三)の東京都民銀行の二億百六十八万三千六百五十八円について告訴(東京地方検察庁に)しており、これらのお金は、いずれも岐阜県益田郡萩原町の十六銀行益田支店にある友森清晴名義の口座、または友森氏の実娘で教団の組み手ですらもない高橋美枝子名義の口座へ送金されている。」

この記事、わざわざ「実の娘」という言い方がひっかかるので注目していたが、軍名簿には、戦没者・行方不明者家族あるいは遺族会との連絡の為と思うが、妻子の名前もきちんと書く欄がある。29年版では、友森清晴氏の妻は○○枝さんといい、友森氏は東京拘置所内と記入されている。

ところが36年版では、妻の名が変わっていた。つまり一番目の妻が○○枝さんといい、二番目の妻はまた別名。中外日報で「実の娘」とタダシ書きするのは、二番目の妻で知られる友森幹部の家族関係だと、この女性の素姓がわからないからだろう。当初16億の口座Noを預かっていた高橋美枝子とは、枝、エダという字が名前に入っていることから、推測として、一番目の妻○○枝さんの娘さんという可能性が強い。中外日報記事の少々不自然な言い回しが、防衛庁図書館のほうの資料で補われることになる。

昭和36年といえば、世の中がかなり落ち着いて豊かになった頃である。しかし友森氏は東大のそばの電源開発というところの寮に単身住まいであったようだ。自分だけ世の中の豊かさから置いていかれたような気持ちではなかったか。敗色濃いといえども、陸軍省内を闊歩していた過去。そこに再び岡田の死で、また路頭に迷うか関口の下でプライドを捨てるか。冗談じゃない、どっちもいやだ。ではなかったか?心情的には。友森氏はもっとドライでゲスっだったかもしれない。それだったらよほど真光にちょうどいいので構わないが。


Top


日記作者