2013年04月23日(火) |
電脳戦に見る悔しさとは何か |
将棋と言えば駒の動かし方を多少知っているくらいだ。それでも強い悔しさを感じる。まして電王戦を戦ってきた現役のプロ棋士達の忸怩たる気持ちはいかばかりか。 「途中は指しやすいと思っていたが、どこでミスをしたのか分からなかった」とは、電王戦で最終局を三浦弘行八段の敗戦の談である。これまでのような時間切れや疲労によるミスを突かれた形ではない。ベストを尽くした上での完全な敗北なのだ。
理論で言っても、プロ棋士は秒に数手先を読むが、コンピューターは秒に億以上の手を読む。あらゆるパターンの将来を網羅し、勝てる道を確実に選べるのだ。コンピューターより人間を有利にしてきた経験や勘を、もはやコンピューターの演算能力は凌駕しようとしている。 悔しいのはそこだ。超えられたらもう追い越すことは叶わないだろう。コンピューターは演算装置の性能を上げれば上げるほど確実に強くなる。人間はいくら修行しても強くなれるとは限らないのに。
そしていつかコンピューターは、将棋の最善手を突きつめるのだろう。その先にあるのは絶対的な勝利か、必ず引き分けになる未来だ。 この電王戦での敗北は、その行き止まりが垣間見えたようで、それがとても悔しい。
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