2011年04月18日(月) |
「死にたい」に対する受け答え(1)責任は何も解決しない |
「小説家になろう」には活動報告、というシステムがあります。まあブログみたいなものなのですが、その活動報告で最近「死にたい」と連呼する方がおられました。 その事情も全部活動報告で書かれていました。
曰く「自分は薄給(月収10万円以下)の非正規労働者である」 曰く「どれだけ働いてもこれ以上の月収は見込めない」 曰く「この状況を打開するにはプロの作家になりでもしないかぎりは無理」 曰く「正社員になるのもむずかしい」 曰く「どうすればいいのかわからない。苦しい状況が打開できる方法がない。そんならいっそ死にたい」 曰く「被災地の方々が援助を受けているのに、同じく苦しんでいる非正規労働者に援助がないのはおかしい」 曰く「生活保護を申請しても、役人に却下され、結果餓死してしまうなんて社会はどうかしてる」
ちなみに、「死にたい」といっていた活動報告に対する僕のコメントを全文コピペすると(ハンドルネームの部分は「貴兄」としています)、
『あんまり毎日「死にたい」なんて言ってると、本当に人が死ぬことになりますよ。(貴兄さんに限らず) 言葉ってそういうものです。
それに日記とかにそういう愚痴っぽいことを書くと、自分で読んだときにさらに暗い気持ちになっちゃいますから、それも気をつけたほうがいいですね。 でも書くことがストレス発散になるというのなら、内容が変わるように行動しなくちゃいけませんよね。
どうでしょう? 今の仕事で正社員にもなれないし、これ以上の給料が見込めないというのなら、仕事が変えられるように転職活動されては? どんなに忙しくても小説はかけますよ。(←毎日5時起き+深夜過ぎ帰り+土曜日出勤の人) 上手く行こうが行くまいが、転職活動が小説の肥やしになるかもしれませんし。 ちなみに賞を取ってすぐ小説で飯を食えるわけじゃないですしね(本気で言ってるとは思っていませんが)。賞を受賞しても「仕事はやめないほうがいいですよ」って言われるそうですよ。
どんなに訴えても基本的に誰も助けてくれません。誰の責任であってもです。 野生の動物で、食う手段をなくした動物は食えずに普通に死んでいきます。だれも助けてはくれません。 人間も動物です。食う手段をなくせばのたれ死ぬのです。
と、まあ恵まれている立場にいて、貴兄の実際の状況がよく分かってない自分が言っても説得力ないですけどね。 言霊を信じている自分としては、あんまり人を暗い気持ちにさせる文章には見過ごせないものがありまして。』
死にたいといっている人間に対して、結構大胆なことを言いました。この人の場合は「死にたい」とか書いているのは、愚痴を言うのと同じストレス発散だと思ったからなのですが。 ただ、酒を飲みながら愚痴を言うならともかく、ブログとかにそういうくらい気持ちを書き込むのはやめておいたほうがいいと僕は思っています。暗い気持ちを載せた言葉を残しておくことで自分を含む、その言葉を読む人をさらに暗いところに引き込んでしまうからです。
少し、話がそれてしまいました。今日の話は『愚痴は日記に書くべきではない』というものではありません。 今日の本題は上記コメントの以下の部分。 『どんなに訴えても基本的に誰も助けてくれません。誰の責任であってもです。 野生の動物で、食う手段をなくした動物は食えずに普通に死んでいきます。だれも助けてはくれません。 人間も動物です。食う手段をなくせばのたれ死ぬのです。』
というところです。
僕は難しいものの考え方が嫌いで、その問題を考えるために、トポロジー的に、より単純な形に問題を考えることがよくあります。 今回のもそれで「食えないくらいに薄給の人は、どう生きていけばいいのか」という問題に対し「そもそも動物って食う手段がなければのたれ死ぬことになるんだよな」とかんがえました。
その考え方でいくと、食い扶持を稼げなくなった人は単純に考えれば死ぬことになります。 でも今の人間の世は、簡単に死なないようにできている、というか、『犯罪を犯さない善良な市民である限り、これを死なせないように保護、保障するのは国家の責任だ』という風潮になっています。 誤解を与えないように言っておきますが「食えなくなった人が死ぬのは当たり前だ」と言っているのではありません。それに近いことは言っていますが。 ただ「自分に助けの手が伸びないのはオカシイ」「こんなに自分の生活が苦しいのは○○(国、政府、周りの環境)が悪いからだ」というのは、あまりよくないことだと思っています。
責任、という言葉がありますが、僕はこの言葉が何かの問題を解決したのを見たことがありません。 ただ、前へ進むためのちょうどよいプレッシャーであったり、憎しみや怒りの矛先を誰かに向けてストレスを発散するためだけの概念でしかないと思っています。 だから、自分の生死に関わるところで、これが誰の責任かと問うのは悪いかどうかという以前に恐ろしく不毛な行為なのです。 実際、「こんなに自分の生活が苦しいのは○○(国、政府、周りの環境)が悪いからだ」といって、本当に国が悪かったとして、国が「ごめんなさい」って謝ってお金をくれるわけではありません。 それに「お前が悪いんだ。俺が苦しいのはお前のせいなんだ」って言われて援助する人もあまりいないと思いますしね。
本当に困っているのなら、本当に生きて生きたいのなら、媚を売ってでも自分は助けるに値する人間であるとアピールして助けてもらうことが肝心なんだと思うのです。
(続く)
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