言の葉孝

2010年07月31日(土) 必要なのは祟りだ

 幼児二人をマンションに残したまま一ヶ月トンズラしていた母親の事件。
 死刑絶対反対ということで、職務である死刑執行命令書へのサインを拒絶し続けていた千葉法相が突然死刑執行を行った事件。

 これら二つは一週間以内にあがってきた記事です。

 千葉法相についてはアレは「やっと仕事したか」とか「死刑に立ち会うのは立派」という肯定的な意見もなくはないのですが、あれは辞めるまで死刑執行しないほうがまだ心証は良かったと思うのです。
 そもそも、自分の主張と違うからといって、死刑執行命令書にサインをしなかった時点で千葉法相にとって死刑執行は法に基づくものではなかったということ。
 何が言いたいかというと、今回の死刑執行は“法”によって行われたモノではなく、紛れもなく千葉法相という“個人”の意思で為されたものであるということです。
 今回の死刑囚は千葉法相によって殺された、と言い換えてもいいでしょう。

 なぜ、今更死刑執行命令書にサインをしたかは分かりません。それまではきっぱりと「サインはしません」と拒絶を表明していました。
 今回の執行について、「命に関わることだから慎重に行った」とのことですが、今回の千葉法相の動きは、自分のイデオロギーのために命を弄んだことになるのです。


 話は変わりますが、死刑制度の是非を巡る上で、問題の一つとなっているのが「死刑制度があることで、自殺感覚で重大犯罪を犯す人が出てくる」ということです。

 それは確かに。中国では薬殺でさらに楽そうなイメージ。絞首刑は若干苦しそうですが、それでもかつて行われたような苦痛刑など及びもつきません。
 これでは犯罪者は刑罰を恐れなくなります。
 だから、苦痛刑もあってもいいんじゃないかと僕は思っていたのですが、よく考えれば、それは誰がやるんだということになります。

 そもそも死刑の執行を行う人もかなりベテランの人でも死刑の度に心を消耗するようです。(というかしないヒトは執行官には向いていないし、むしろ危険人物といえます)
 そのうえ、苦痛刑まで与えさせるようにしたら、きっと誰かは壊れてしまいます。


 幼児二人をマンションに残して殺してしまった母親で思ったことが、「祟りが本当にあって、死にたくなるほど怖い目に遭えばいいのに」ということ。
 

 昔は、祟りというのが非常によく機能していたと聞きます。

「○○すれば祟りにあうぞ〜」

 という話を子供時代に刷り込まれることによって、悪いことをしたときにその祟りを恐れて神経が衰弱してしまう、というのが祟りの正体なのですが、そういうファンタジーなことはあまり通用しないのが現代。

 でも祟りを再現出来たら。

 悪いことをしたら、正確に恐怖という罰を与えられるという便利なシステム。
 裁判もいらない、刑務所もいらない、刑罰を与える人に精神的負担もかけない。

 大抵祟りは被害者の知らないところで発生するので被害者はあまりすっきりはしないと思うのですが。
 今、求められているのは祟りを否定することではなく、公正な裁きを課すために、“祟りシステム”を構築する研究なのではないでしょうかッ!

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