言の葉孝

2006年10月02日(月) 所与(being)と構築(doing)


 今期とっている授業はなかなか当たりのものが多く、事実そのものの授業をはじめ、人生において考えさせられる授業が多い。その一つが、『アメリカ文化研究』だ。わりと豪胆な性格の女性講師が担当するこの授業は、今のところアメリカの銃文化を学んでいるのだが、ところどころにその講師の人生哲学が交えられる。
 それは、割と極端な考え方なので、何でもかんでも賛成するというわけには行かないが、それでも「こう考えなさい」と強要するのではなく、「〜と思うんですよ私は」のように、自分の考えを主張して、全員に考えさせるやりかただ。

【所与(being)と構築(doing)】

 授業と関連して出たのが“所与”と“構築”の違いである。ここで、所与は「はじめから与えられた環境で満足、もしくは我慢して過ごすこと」、構築は「与えられたものでは満足せず、自分で快適に過ごせる状態に環境を作ること」を意味している。

 授業でこの話が出たのは、アメリカの銃文化に根付く事件として独立戦争を取り上げているからだった。日本は、一般市民が決起して政府を作ったという例はない。明治維新も、各幕府成立も上流の貴族階級、武士階級、あるいはそれに順ずる地位をすでに持っている者たちで行われたのだ。
 現在でも、いくら不満があっても、人は文句は言うが、それでも決起して政府を打倒しようと考えるものは少ない。日本人は典型的な“所与”タイプの人間なのである。

 世界的に“構築”タイプの人間は少ない。政治家でさえもである。“構築”したものには責任を持たなければならないからだ。だから「まだ我慢できるレベル」では人は動かない。極端に国が荒廃し、飢餓などで「もう耐えられないレベル」になれば、人は動かざるを得ないのだが。

 俺は“所与”タイプの人間だ。いろいろ活動的に動いてはいるが、それでも自分で作ったものはまだ何もない。小説を書くことが“構築”に当たるかどうかだが、小説は環境ではないし、一本書き上げても自分の状況が劇的に変化するわけでもないので、これはこの場合の“構築”には入れられない。
 だが、身近な例で言えば俺の所属する出版会やモモサポを作った人たちは間違いなく“構築”タイプだろう。
 遠い昔の出版会の創始者はともかく、2,3歳上の先輩たちであるモモサポを作り上げた人たちがどれほど酒の席でバカをやっても、輝いて見えるのは“構築”タイプだからかもしれない。

 だが、“所与”タイプで悪いことは何もない。何も動かなくても満足できることは幸せなことだ。その環境で自分が磨けるかはともかくとして。しかし、“所与”タイプとして肝に銘じておかなければならないのは、「自分が今暮らしている環境は誰かが作り上げたものだということ」だ。
 たとえば、料理などではお金の代わりに得られたものに関してはクレームをつける権利がある。店としても受け止め方はどうあれ、クレームは店の質を上げる機会になる。ただ、家や友達などに無償で出された料理は黙って食べるべきだ。「文句を言うのなら自分で作れ」という話なのだから。
 文句を言うならば面と向かって、できるだけトゲのたたない言い方、つまりあくまで「建設的な意見」という形にするべきだ。後で他人に陰口をたたくのは最低の行為だと、俺は考えている。





web拍手レス(銃文化についての話は、講義が一段落した際に述べてみようかと思います)

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