言の葉孝

2005年07月13日(水) “『マビノギオン』に関するレポート”の日

 本日の一幕。

父:エリー、おいでおいで〜(はぁと)

 父がビール片手にエリーを呼ぶ。
 ダイニングで寝ている状態から立ち上がるエリー、のろのろとリビングへ入ってくるが……父の元に行くと見せ掛けて方向転換し、ソファーに座って『トリビアの泉』を見ていた僕と母サマの間にやってきた。

 座ってくつろぐエリー。
 ショックで驚く父。

 何を思ったか、父はおもむろに立ち上がり、ダイニングへ。そして帰ってきた時、父の腕にいたのはテルモである。

父:おー、よしよし可愛いなぁ、テルモ〜。

 父、テルモを撫でてエリーの嫉妬を誘う作戦に出る。

想:どうする? エリー、お父さん取られるで〜?

 が、エリー動ぜず。

 五分後、父、リタイア。リビングを後にして二階へ。その背中にはえも言われぬ哀愁が。


 その一幕に関する僕からの一言。

想:そうか、テレビではゴキブリにモザイクを掛けなきゃいけないのか。
 しかし、あのゴキブリを季語に使った俳句下手クソにもほどがあるな。4時間も待ってたんだからもう少し捻れんものか。番組の演出かもしれないな。

 ツッコむところそこじゃないから!


 「西洋中世文学史」のレポートを手をつけました。レポート内容は「中世の文学作品を一つ読んでレポートを書きなさい」というもの。明後日の金曜日に締めきりだったので。

 この、以前「ローランの詩」を取り上げた際、登場人物がどんどん死んで行く状況をさして「カタルシスってやつですね〜、さっぱりして非常に素晴らしいですね〜」と言ったり、4月22日の日記で取り上げたようなエピソードもあったりするY教授、過去に酷い例があったらしく、「インターネットのコピペはあきませんよー」と念を押していました。
 そこでチェックされた際に対応できるようここに名言しておきますが、ここにあるレポートは提出されたレポートを書いた生徒と同一人物によるものです。決してコピペではありません、むしろこっちがコピペです。

 では、以下にそのレポートの中身を。




『マビノギオン』に関するレポート


 今回のレポート作成にあたって、私は授業では紹介されていない、またアーサー王伝説などのような有名なものではない物語を読もうと思った。そこで、インターネットで「西洋」「中世」「文学作品」などのキーワードを元に探し出したのが、この『マビノギオン』である。地元の図書館にはいくつか同名の本があったが、一番新しい中野節子氏による翻訳本を選んだ。後ろには親切な解説もついており、分からない単語や風習についても補足してあったので物語を読んでいく上で、混乱は最小限に抑えられた。
 私的な話だが、私は少々最近の娯楽小説に読み慣れ、また自ら小説を書くので、そのノウハウを多少なりとも心得ているため、小説としてのエンターテイメント性、資料としての価値の2つの視点から『マビノギオン』について論じてみたいと思う。

 1、エンターテイメント性

 私は常々、古典文学作品を読むのは苦手だったのだが、今回『マビノギオン』を読んで、なぜ苦手なのか、なぜつまらなく感じるのかがはっきりした。
まず小説の基本は起承転結であるのだが、それがほとんど感じられなかった。現代の娯楽小説にはひとつの物語にメインとなるイベントが1つあり、それに付随して肉付けするようにいくつかのサブイベントがあるのがほとんどである。しかし『マビノギオン』の物語には散発的にイベントが起こり、終わる。物語の始まりを「起」として、その物語の終わりが、物語の始まりに起こったイベントの終結ではない。
 娯楽小説を読んでいると、メインのイベントの進み具合であとどれだけ続くのか分かるが、『マビノギオン』だと、それがまったく読めないため、読んでいる間、ゴールが決められていないマラソンを走っているような精神的な疲労感が起こるのだ。また、メインイベントは物語の骨組みのような存在なので、それがないと小説として軟体動物のように形のあやふやな仕上がりになってしまう。物語の終わりとして締まりも悪い。

 また、本文において心理描写がほとんどされていないのも、今ひとつ読むのに夢中になれず、疲れを感じてしまった原因の一つだと思う。心理描写、特に主人公のそれは、読者を主人公に精神的に同化させ、物語に引き込む引力のようなものだからだ。たまにそういう描写も見かけるが、言葉が陳腐、というのは言い過ぎだろうが、とにかく端的なので真実味があまり感じられないのである。
物語の演出においても同じだ。所々、“魔法の意味合い”や約束事、騎士としての礼儀や誇りなど、おいしい要素がたくさん散りばめられているにも関わらず、要所要所で緻密さを失い、それを台無しにしている感がある。

 なお、『マビノギオン』に収められている11の作品の中で個人的に気に入っているのは、“マビノーギの4つの物語”の最初を飾る「ダヴェドの大公・プイス」と、“アルスルの宮廷の3つのロマンス”の最後にある「エルビンの息子・ゲライント」である。
 プイスの物語においては、アンヌウヴンの王・アラウンとの友情が成立する過程、古老ヘヴェイズの娘・リアンノンと結婚するに至る過程において、彼等の忠告や提言を律儀に守ったプイスの素直さが好ましく思った。
 ゲライントの物語で気に入ったのは、主人公の彼自身ではなく、彼の妻であるインニウル卿の娘・イーニッドである。夫の勘違いからの嫉妬、そしてそこから下された仕打ちに何ら恨みを漏らすこともなく、ただ付き従った従順さ、それ以外の部分での判断力と行動力、意思の強さなどは、時に主人公であるゲライントの存在が霞む。
 反対に気に入らなかったのは、“カムリに伝わる4つの物語”の三番目、「キルッフとオルウェン」である。この話は後の『アーサー王物語』に繋がるアルスル王とその周りの騎士達の物語の最初である作品なのだが、まず巨人の長イスバザデンの娘・オルウェンと結婚するためにその父であるイスバザデンから与えられた39の難題をこなさなければならないというのが主なあらましである。しかし、この39の難題をこなすのに、キルッフは参加していない。命を張って、イスバザデンの要求リストを命懸けでこなしたのは専らアルスルの騎士達である。ここまで自分で動くことのない主人公は全く見たことがなく、自分の私用を完全にアルスルに甘えて任せ切ってしまっているという根性がどうにも好きになれなかった。

 2、資料としての価値

 解説を読んでいると、この『マビノギオン』は中世ウェールズの文化、古ケルト社会の思想を今に伝える資料として大変な価値があるらしい。実際、読んでいて、時々カルチャーショックを感じることがあった。宴会が何日も続くこともあったとか、処女性に対する報奨金などはともかく、客人に対して自分の妻を提供するのが最上のもてなしであるとか、「足持ち人」という使用人がいるだとか、自分が考えもしなかった風習が古ケルト社会にはあったのである。
 それに、物語で初出の人物にはほとんど必ずと行っていいほど「〜の息子」という前置きが入るが、それが今でいう「トンプソン」や「アンダーソン」などの典型的な英語のファミリーネームに繋がって行ったのであろう。その他にも、真実であるかどうかは定かではないが、物語の中で「それから〜ということわざが生まれた」、「そのためにこの場所は〜と呼ばれている」、といった調子でことわざや地名の語源となるエピソードも紹介されている部分がたくさん見られた。
 また、同じ『マビノギオン』に収録されているとはいえ、“マビノーギの4つの物語”と最後に収録されている“アルスルの宮廷の3つのロマンス”とは随分色の違う作品になっている。物語としてもしっかりしたものになって来ているのが分かるし、巨人なども頻繁に出てきたりして“マビノーギの4つの物語”に残っていたケルト神話色が、『マビノギオン』の後ろに向かうにつれて薄れてきている感じがする。
 
 また、私があまり好かなかった「キルッフとオルウェン」にも資料としての重要性があるらしい。解説によると、この物語には2つの特異な読み上げが含まれている。先ず、門番・グレウルイト・ガヴァエルヴァウルによって挙げられる彼とアルスルの冒険の数々、そして二つめはキルッフによって読み上げられるアルスルの部下の名がそれにあたる。特に後者は5、6ページが丸々埋まっているほど一見からして特異であったのだが、これはそれぞれの人物が物語を持っており、それを語ることができる、という吟遊詩人達の“演目リスト”のようなものであったという。

 さらに重要なのが先ほどちらりと述べた、アルスル王はアーサー王の前身であるということだろう。この本の後半には全てアルスル王とその周辺の騎士達の物語になっており、物語の登場人物も共通して、主君であるアルスルやその妻・グウェンホヴァルをはじめ、カイやグワルッフマイなどは、お馴染みともいえる面々になっている。
 私は、分からない単語を調べるために後ろに付いている解説ページを見て、初めて気が付いたのであるが、なるほど読んでいると『アーサー王物語』に類似性を感じた。
 特に最初の物語「キルッフとオルウェン」で、キルッフがイスバザデンから与えられた39の難題をアルスルの騎士達が各地に向かってこなして行く姿は、方々に散らばって聖杯を探し様々な物語となった聖杯の騎士達を連想させるものがある。
 また、アルスルがアーサーの前身であるように、グウェンホヴァルはグウィネヴィア、カイはケイ、ペドウィルはパーシヴァルなど、後に繋がって行く人物が多数挙げられている。

 解説では特に言及されていないが、私が個人的に気になったのが『3』という数字である。「キルッフとオルウェン」以降のアルスル王物語群にはぴたりと姿を消したが、それまでの「スィッズとスェヴェリスの物語」までには『3』という数字が頻繁に出てくる。
 用語解説から例を一々挙げてみると、《三人の力ある女家長》《驚きのあまり胸がはり裂けた三人の男達》《三つの幸福な隠蔽》《三つの不幸な発覚》《三つの不幸な殴打》《三人の欲のない族長》《三人の黄金の靴づくり》《三つの不幸な打撃》《三つの不忠な衛兵たち》《三つの災禍》などがある。このうちの半分が“マビノーギの4つの物語”の二つ目「スィールの娘・ブランウェン」が初出であるため、ここが根源であるような気もするが、その前のケルト神話から『3』という数字は神聖視、あるいは物語にしやすい数字だったのかもしれない。現在でいう『12』もキリスト教の十二使徒、仏教の十二神将、十二支、黄道十二星座など、様々な方面で曰くのある数字なので、そういう感覚で中世ウェールズの吟遊詩人達も『3』を使っていたのだろう。


 読んでみてもあまり面白くなかった物語『マビノギオン』だったが、こうして分析してまとめてみると結構楽しいものだった。読んで面白いのではなく、研究して面白いというのが、「文学作品」というカテゴリの定義なのかもしれない。

対象文献:
中野節子訳『マビノギオン 中世ウェールズ幻想物語集』(2000)JULA出版局




 『マビノギオン』、是非お試しあれ。僕的に『アーサー王物語』より好きですよ。王妃を寝取られたり、すれ違いの悲劇も全くないし。


web拍手レス(うん、俺らしい。<『マビノギオン』を選んだ理由)

>「プロジェクトX  究極のカレーを創れ! 成功?w もしくは継続中?w」

 いやいや、『究極』より目指すは『至高』でしょう。(←『美味しんぼ』ネタは止めれ)
 ま、フツーに旨かったですよ。カレーの肉には薄切りのものより厚切りの方が望ましいのですが、牛肉でそれは無理なので、とり肉の方が良いでしょう。
 あと、これは僕のこだわりですが、食べる時に生卵を混ぜるといいです。福神漬も欠かせませんな。

 < 過去  INDEX  未来 >


想 詩拓 [MAIL] [HOMEPAGE]
web拍手です。あなたの一言感想が想 詩拓を失神させます。→ web拍手レス