言の葉孝

2005年05月11日(水) 『英語帝国主義論』について考える日 その2

 とある青年男性の主張ーー!

 外国産映画のタイトルを原語そのまんまカタカナで表すのはとてもみっともないと思います!

 『フォアガットン』とか! 『コラテラル』とか!
 原語のタイトルを採用するならアルファベット! そうでないなら日本独自の見目のいいタイトル考えなさい。
 『忘れられ』とか! 『サトラレ』がありならそれもアリだと!



 それでは昨日の続きに入ろうかと思います。
 昨日の復習。英語帝国主義とは何なのか。簡潔に言うと、「英語による言語支配を享受してしまうというイデオロギー」の事です。どういうものが英語帝国主義的なのかは昨日の日記を参考に。

 2、英語帝国主義における問題は?

 第一は『不平等性』です。
 私達日本人は中学から第一外国語として英語を習いはじめます。しかし、米国や英国では、義務教育で外国語を習うことはなかなかありません。つまり、米英の中でこそバイリンガルの数が少ないのです。
 それでも彼らは困ることはありません。何故なら、少しでも国際的な役割を持つ施設や場では母国語である英語が通じるからです。米国、英国に渡る日本人の半分は曲がりなりに学校で習った英語が使えるケースが多いのですが、逆に日本にきている英語話者が日本語を少しでも知っているケースはあまりありません。しかも、長年日本に暮らしておいて、それでも日本語を覚えないという人はたくさんいるのです。
 このように、世界が自分の国に合わせてくれるために、英語を母国語とする国の人々は、外国語を学ぶ時間を他の勉学に当てることができるのです。

 また、コンピューター言語の語源は英語からです。よって、プログラミングを覚える際、日本人に必要なのはコンピューター言語の意味を解することと、技術なんですけど、英語を母国語とする場合、前者の作業が消え、その分上達は早くなります。

 このように、英語を母国語とするだけで、得をするケースは非常にたくさんあります。

 第二は『英語国の優越』です。
 僕は既に成人を迎えているのですが、カナダでホストファミリーにお世話になっていた時、ホストファミリーは僕を子供のように扱っていました。頼みごともあまり複雑なものは理解出来ないとして始めからしてこないのです。
 このように、“非英語話者による英語”はネイティヴにとって非常に稚拙であり、その印象をその人の精神年齢として理解してしまいます。

 国際政治や、外交の世界においてもレベルは違うものの、同じ現象が起こっていることは想像に難くありません。つまり英語話者は、非英語話者をナメてしまうのです。結果、米国や英国の人間が優越感を持って他国の人間と接し、会議や議論の主導権を握られてしまうのです。

 第三は『英語国による知識の吸収』です。
 今日、国際的な学会で論文が認められるためには、論文を英語で書かなければなりません。先ず、ここで非英語話者は自分の研究の他に英語に時間を割かなければならなくなり、英語の文献を読むために多大なストレスを強いられます。
 英語話者の研究者の場合、そうしたストレスとは無縁に自国語で書かれたたくさんの論文を読みこなし研究が出来ます。
 こうして、英語国の方が研究が進むといった具合になってしまうわけですが、するとどういうことが起こるか------非英語話者ながら、優秀な研究者、つまり知識がどんどん英語国に留学という形で流れて吸収されてしまうのです。

 3、ではどうやって英語帝国主義に抗うか?

 大きく2つ、『英語帝国主義論』には提案されています。

 一つ目は「世界言語」としての人口言語の普及。
 人口言語として有名なのがエスペラントなのですが、あまり広がりを見せる様子はありませんが、いつか、何かの表紙で広まる可能性がないとは言い切れません。

 二つ目は英語呪縛に解き放たれた言語を使用すること。
 あまり抽象的で分からないのですが、その一つの具体例としてアイルランドの小説家・ジェイムズ・ジョイスによる20世紀英文学の大作といわれる作品、『フィネガンズ・ウェイク』が挙げられています。
 これは英語による作品ではあるものの、世界中の数多なる言語の言葉がちりばめられ、また単語等に二重の意味を持たせたり、超高度な言葉遊びとも言える作品です。『英語帝国主義論』には二カ所の引用がありましたがなる程、英語でない英語、英語を超えた英語といわれる理由がよく分かります。
 つまりこれが、大石氏の反英語帝国主義の究極であるという事なのです。

 それでは明日は、大石氏の意見からは外れた僕の意見を述べたいと思います。

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