2003年08月22日(金) |
私小説 瀬戸内 晴美 |
いったい、小説家は「小説」の名において、どこまで自分や他人の心を描き出すことが許されているのか。逆の形で問えば、それを「小説」にしているのは、いったいこの人間の社会が「文学」に託しているどんな期待であり、希望であるのか。人間には当然人に知られたくないし、表現として残されたくない、さまざまの心の秘密があるはずだ。小説家、そして宗教家としての作者は、むろんそのことを知悉している。それでも、なおかつ、90代の老革命家の異性に対する狂おしいまでの愛執を描き出し、仲間たちを殺害した革命党派の女性指導者の、死者に対する罪の意識を問い詰めるのはなぜなのか。これは小説家のディレンマというより、むしろ「業」とでもいったほうが、この作家にふさわしいものであるだろう。もちろん、そうした「業」や「煩悩」といった言葉で、たやすく納得するわけにはいかないことなのだが。
現実にそって、刻々身辺の事実を羅列していって、いかにも真実を告白していくように見せながら、決して真実なんて本質の四分の一も語りつくせないものですよ。 そんなら私小説という手法を逆手にとって、いかにも私小説らしく嘘八百書いてやれといつか思うようになった。ところが、それも落とし穴だったわけ。逆手にとったつもりがいつのまにやら逆手にとられ、こっちが私小説ふうの枠組の中で振りまわされていた・・・。
私小説=死小説
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