2006年10月20日(金) |
ペットロスとクローンペット |
電車の中で読む本には注意しなくてはならない。会社帰りに出久根達郎さんのエッセイを読んでいたら、うちの一話に涙が止まらなくなり困ってしまった。
わが子のようにかわいがっていた犬の「ビッキ」が闘病の末、八歳で死んだという話だ。骨と皮になり、息も絶え絶えの状態のときに、仕事で三日間家を空けなくてはならなくなった。自分の留守中に万が一のことがあったら……と不安がる出久根さんに「安心して行ってらっしゃい」と言うかのように、ビッキは自力ではもう飲めなくなっていたはずの水をがぶがぶと飲んでみせたという。
結局、主人の帰宅を待たずに死んでしまうのであるが、その後の話を読んでいると出久根さん夫婦にとってビッキは“ペット”という言葉では表しきれない存在であったことが伝わってくる。家の中は火が消えたようになり、一ヵ月半たっても二時間も三時間も写真を眺めては涙してしまう、とあって胸がしめつけられた。
ビッキは戒名を与えられ、墓石には碑文も彫られたそうであるが、飼っていた犬や猫が死んだときにペット葬儀屋を依頼したり、動物霊園でお葬式をあげたりする人は昨今ではめずらしくない。何年か前に散歩中の事故で犬を失くした伯母によると、お坊さんがお経をあげてくれ、焼香もし、火葬後はお骨上げ、卒塔婆を立てた墓もあって……と人間のそれと変わらないということだ。
うちの実家にも柴犬がいるが、彼女が死んだらやはりどこかで焼いてもらって、庭に骨を埋めるだろう。墓のまわりには彼女がくつろげるようにと芝生を植え、命日には好物を供えてやるに違いない。
昔といまとでは飼い主とペットの関係がずいぶん違っているなあと思う。
私が子どもの頃は番犬として犬を飼う家が少なくなかったし、祖母の家にいた猫はネズミをとらせるために飼った猫の子孫だった。当時は猫というのは「自由な動物」であり、ごはんをもらうときくらいしか家に戻ってこないものだった。いまのように部屋から一歩も出さないという飼い方ではなかったから、首輪をつけた猫をそこいらで、ときにはわが家の台所に忍び込んでいるのを見かけたものだ。
いまは犬にしろ猫にしろ愛玩目的で飼い、れっきとした家族の一員だ。昔と比べると経済的なゆとりもあるから、死んだときは手厚く葬ってやりたいと考える人が増えるのは必然である。「ペットロス症候群」なる言葉が聞かれるようになったことにも頷ける。
……しかしながら。「もしこの子が死んだら、また同じ子を飼いたい」という気持ちは私には理解しがたいものがある。
昨日産経新聞のオンラインニュースで、二〇〇〇年に世界で初めてペット猫のクローン販売をビジネス化したアメリカの「ジェネティック・セービング・アンド・クローン社」が思うように注文が取れずサービスを停止したという記事を読んだ。
ペットのクローンニング事業については以前、それに取り組んでいるアメリカのいくつかのバイオテクノロジー企業を取りあげた番組を見たことがある。動物のクローンニングには法的制約がない。そのため、これらの企業にはペットのクローンを希望する飼い主からの問い合わせが殺到しており、約11万円を支払ってペットのDNAを冷凍保存し、クローンニング技術の確立を待っている人が大勢いるという内容だった。
「愛するペットといつまでも一緒にいたい」
その気持ちはよくわかる。しかし、「だからクローンを」というのには強い違和感を感じた。
そして思い出したのが、アーノルド・シュワルツェネッガー主演の『シックス・デイ』という映画である。舞台は近未来、すでにクローン技術が完成し、人間のクローンは法律で禁止されているがペットは問題なしとされ、社会にすっかり浸透しているという設定だ。
ある日娘のクララが飼っていた犬が死に、妻は娘を悲しませまいと死んだペットを再生させる会社「Repet(リペット)」で愛犬のクローンを買ってきてほしいと夫に頼む。クローン嫌いの夫は「いや、オリバーは私たちの心の中だけに生き続けることができるんだよ。これは生命の自然ななりゆきなんだ」と諭すが、妻は「クララはまだ八歳なのよ。そんなこと理解できないわ!」と譲らない。
------という場面があるのだけれど、「死」というものを正面から受けとめず、存在をよみがえらせることによって悲しみを回避しようとする姿には不気味さを感じた。
さきほど紹介した産経新聞の記事によると、ジェネティック・セービング・アンド・クローン社の顧客第一号となったテキサス州在住の女性は十七年間飼っていた猫のニッキーが死んだ翌年、遺伝子バンクに預けていたDNAからつくられた“リトルニッキー”を受け取った。水遊びが好きなところまで同じだと喜んでいるということだ。
しかし、クローンペットは記憶まで受け継ぐわけではない。加えて、先代とまったく同じ環境で育てることができないのだから性格も違ってくる。
つまり、姿かたちは同じでも中身はまったく別の猫。ニッキーが生き返ったわけではないのである。
ペットへの愛や失った悲しみをそういう形で表現したり乗り越えたりしようという思考が健康的なものであるとは、私には思えない。
書類をコピー機にかけるかのように犬や猫が“複写”されるなんて、考えただけで寒くなる。そういう世の中になったら命の重さもずいぶん変わるだろう。なんせ細胞さえ預けておけば、死んだって再生できるのだから。
クローン猫販売がビジネスとして成立しなかった理由がそういった倫理的懸念にあるのか、それとも価格(約384万円)にあるのかといったことは記事には書かれていなかったが、いずれにせよほっとした私である。
しかし、「いくら金を積もうとどれだけ科学が進歩しようと、命は代替できるものではない。犬も猫ももちろん人も、“現品限り”なのだ」という、いまは当たり前と思われていることが当たり前でなくなる時代がそのうちやってくるのだろうか。
そういえば、『シックス・デイ』の舞台となった近未来は「二〇〇七年」だったっけ……。
このところ生体臓器移植や代理母出産などのニュースを立て続けに耳にしている。
どこまでが「自然ななりゆき」と言うことのできる生なのか、命なのか。それを可能にする技術力に人々の感情(望む声)が加わり、そのラインがわからなくなってしまったのだ。
人間はいったいどこまで求めることができるのだろうか。私の中にももやもやするものがある。