※ 前編から読んでね。
「つまり、A子さんが帰ってくる前の段階では私はあなたのこと、恋人には一番不向きなタイプって思ってたんやから、そんなしおらしいこと言うわけないねん」
すると、「じゃああの顔はなんやってん?」と彼。いや、だから、“あの顔”自体が存在しないんだってば。
しかし、彼の中では「小町ちゃんの泣き顔」→「情にほだされる」→「A子との別れを決心」という流れになっており、あくまで私が彼を好きになったのが先だと言い張る。
「そんなふうに思われてたなんて心外……」
「わかった、わかった、じゃあおまえの思い出通りやったってことにしよう、うん」
昔のことなんだからどっちだっていいじゃないか、と彼は笑う。が、ちっともよくない。私はなにもメンツのためにこだわっているのではないのだ。
その後も私は何度か恋をしては失った。そのたび「私はこのまま一生ひとりぼっちなのでは……」と戦慄したが、その恐怖の中で一条の光になったのが彼との最初の頃の記憶なのだ。
特別な魅力や取り得があるわけでない平凡な女の子だった自分をあんなふうに好きになり、求めてくれた人がいた------そのことが自信を失い、孤独に苛まれる私をどんなに勇気づけたことか。
「あのとき私はあんなに愛されたじゃないか。『君がいい』と言ってくれる人はきっとまた現れる、だいじょうぶ」
そう信じることで、私はふたたび顔を上げて歩きだすことができたのである。その“よすが”が架空のストーリーであってはならないのだ。
一連の記憶にはぜったいの自信がある。しかし彼があまりにも確信を持って言うのに加え、場景がちゃんと具体的なので私は次第に不安になってきた。
「もしや彼の言うことが本当で、私は無意識のうちに自分にとって幸せな方向に思い出を捏造していたんだろうか……」
私は実家の納戸に積んである「開封厳禁」とマジック書きしてあるダンボール箱の中から古い日記帳を出してきた。当時、私は大学ノートにその日あったことを事細かにつけていたのだ。どきどきしながらページを繰る。
真実は私の記憶の中にあった。
* * * * *
私を大食らいの花嫁呼ばわりした友人も大学時代の彼も、故意に思い出をすり替えたわけでないのはわかっている。その記憶が事実とは異なるものに変化してしまっていることにまるで気づいていないのだ。これは私にも覚えがある。
少し前、ある人が京都を訪ねるというのを聞き、私は自分が大学時代に住んでいたマンションを見てきてほしいとお願いした。卒業してから十二年、思い出のマンションがどうなっているのか知りたかったのだ。
しばらくして、言われた場所に着いたよと連絡をくれたのだけれど、私が伝えた特徴の建物は見当たらないと言う。
「三階建てで壁はピンク色、名前は『○○パレス△△』だよ」
ずいぶん探してくれたようなのだが、やはりそれらしきマンションはないとのこと。そっかあ、つぶれちゃったんだ……。
としみじみしているところにメールが届いた。いまはこんな感じになってるよと辺りの風景を携帯で撮って送ってくれたものを見て、びっくり。懐かしい建物が写っているではないか。
「あった、あった!これだよ〜」
しかし、よく見ると壁の色は白、マンションの名前も「○○パレス△△」とはまったく違っている。なんと、私は完全に思い違いをしていたのだ。
愕然とした。引越してから十年以上たつとはいえ、三年も住んだ思い入れのあるマンションなのである。それなのにその姿がいつしか私の中で“真実”からかけ離れたものになっていたとは……。
いったいどうしてこんなことが起きるのか。
不思議でならなかったのだが、先日ある日記を読んで膝を打った。とてもわかりやすく書かれているのでぜひ読んでみていただきたい、「歯医者さんの一服」の八月三十一日付「揺れ動く記憶」というテキストだ。
「記憶というのはきわめて不安定なものであり、時間の経過とともに失われるだけでなく、ほかの記憶と入り混じったり知識や経験と結びついたりすることで新しい記憶に作り変えられてしまうことがある。対象についての情報が多ければ多いほどより正確な形で記憶することができるが、その反面、情報が多くなるにつれ記憶に変化が生じる可能性も高くなる」
という内容である。これを読み、すべての謎が解けたような気がした。
友人が私が披露宴でぱくぱく食べていたと思い込んだのは、彼女の中のふだんの私のイメージが作用した結果ではないだろうか(失敬な、と言いたいが)。大学時代の彼については私とほかの女性を混同している可能性が考えられる。部屋を去ろうとする彼に「行かないで」とすがったのは、もしかしたらA子さんだったのではないかしら……。
よく考えたら、壁がピンク色なのは現在私が住んでいるマンションである。そして「○○パレス△△」はこれまでに住んだいくつかのマンションの名前がごっちゃになったものであった。
思い出は「色褪せる」とよく言うけれど、無関係の記憶と結びついて別のものに「生まれ変わる」こともあるのである。
記憶の加工、上書きが本人のあずかり知らぬところで起こっているのだ、ということをさりげなくアピールしたところで白状すると。
記憶力のいい人はリンク先の日記を読みながら、ん?と思われたかもしれない。
「そういえば小町さんもこないだ、『私は人との待ち合わせに遅刻したことがない』って書いてたっけ……」
そう、さきほど紹介したテキストに出てきた「S君」というのは私のことである。優しいそうさんは共通の読み手に気づかれないようにとカムフラージュして書いてくれたけれども。
私はその日のことを「忘れていた」のではない。あのとき遅刻したじゃない、小町さん、と言われてもなお、「もうちょっとで遅れるとこだった、やばかった〜」と安堵のため息をついている記憶しか呼び出せないのである。なんてことだ……。
本日の教訓。
「誰かが自信満々で断言するからといって確実な情報であるとはかぎらない」