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2006年09月25日(月) いつまでもその場所にいさせてはもらえない

先日友人に会ったら、部屋からこんなものが出てきたと封筒を渡された。
なんだろうと開けてみたら、四年前、彼女と中国を旅行したときの写真。私のために焼き増しをしてくれていたのをすっかり忘れていたらしい。
「うわあ、懐かしい〜〜」
……が、そのあとはうーむとうなって黙り込んでしまった。そこに写っているふたりがなんだか若々しかったからである。
当時といま、どこがどうと言葉で説明できるような違いではない。しかし、四年というのは決してそのあたまに「たった」とつけられるような時間ではないのだなあと実感させるものがあった。

そしてふと思い出したのは、最近ファンデーションを買いに行ったときのこと。販売員のおねえさんに「お仕事とか、お忙しいんですか?」と唐突に訊かれた。
「え、どうして?」
「疲れてらっしゃるみたいだから」
「わかりますか、ちょっと寝不足で……」
思わずそう返したものの、本当は疲れてなんていなかった。今日はふだんより化粧乗りがよくない、ともとくに思っていなかったのだ。
だからこれはけっこうショックだった。だって、自分にとっての「ふだんの肌」が他人には「疲れているように見える」ということだもの。自分では肌はきれいだと思っていたのに……。

しかし差し出された拡大鏡を見て、はっ。そういえば、ホテルで洗面所の拡大鏡を使わなくなったのはいつからだろう。二十代の頃はためらいなく覗き込めたし、化粧をするときに重宝していたのに。
見たくないものを遠ざけようとする心理が無意識のうちに働いていたのだろうか。

* * * * *

もう三十四だものね、なんてあらためて考えることはないが、ふとした瞬間に年齢を感じてどきっとすることはたしかにある。
このあいだ友人とお茶をしていたら、店に懐かしいメロディが流れた。
「ひゃああ、『夏の日の1993』やん〜〜っ」
「これは『夏の日の2006』やけどね」
今年誰かがカバーしたらしいが、原曲は私たちが大学三回生のときに流行った。あの頃カラオケに行くと、男の子が誰か必ず歌ったものだ。
しかし、友人がしみじみと言う。
「でも、会社の子に『classって誰ですか』って言われたわ」
「そう……。いまの子は知らないのね……」

以前、何人かで話している最中に誰かが「大船に乗ったつもりで」というニュアンスを表現するのに「はらたいらさんに全部!」と言ったので、その冗談に「じゃあ、いつ見ても素敵な竹下景子さんに二千点」と乗ったら、なんですか、それ?と言われたことがある。
「『倍率ドン!さらに倍!』……って知らない?」
「さあ」
五つ年下のその女性は『クイズダービー』を知らなかった。
ついこのあいだまで、親戚のおじさんや会社の上司が「当たり前田のクラッカー!」「あっと驚く為五郎〜」なんて言うたびに、知らないよお〜!と苦笑していたような気がするのに、自分もいつのまにか誰かから「ついていけない」と思われる立場になっていたらしい。

長いこと、恐ろしい犯罪を犯すのはずっと年上の人間というイメージがあったのに、いま世の中を震撼させる凶悪犯には年下がごろごろ。活躍中のスポーツ選手は自分より若いのが当たり前、ハンカチ王子のニュースを聞くと姉の心境を飛び越えて「こんな子が息子やったらええなあ」と思う。たいていのドラマは「私もいつかこんな経験をするのかしら」ではなく、「私にもこんな頃があったなあ」と振り返りながら見るという感じだ。
子どもがいないのと周囲に独身の友人が多いのとで、自分では十年前とそう違わない気分なのであるが、決してそうではなくて。たとえ精神はまるで成長していなくても、肉体や社会的な立場は十年分、きっちり年月を重ねている。
「まだ若いから」という言葉でいろいろなことが許されたり免除されたりした、その場所にはいつまでもいさせてはもらえないのだ。

そのことをもっとも切実に感じるのは実家に帰ったときである。
両親は娘に心配をかけまいと、体調がよくないとか病院に通っているとかいうことを進んで言わない。なので、帰省すると部屋に見慣れない薬袋やなんかがないかを注意して見るのであるが、この一年ほどは気になる症状をネットで検索してプリントアウトしたものを見つけることがしばしばあって、重い気分になる。
どんな物も長く使えばガタがくる。人の体だって同じであるが、親の老いを見るときほど「自分ももう、いい年なんだ」と思い知らされることはない。