半月前に書いた「私の二十年を返して!」というテキストの中で、『婦人公論』に連載中の工藤美代子さんのエッセイを紹介したことを覚えておられるだろうか(こちら)。
内容をかいつまんで書くと、親戚の四十五歳の女性が突然上京、工藤さんの自宅にやってきて衝撃的な告白をした。
結婚二十年になる夫とは新婚時代からセックスがない。その問題を除けば気楽な家庭生活だったため別れようと考えたことはなかったが、最近になって夫が同性愛者であることが発覚。体裁のためだけに結婚し、二十年間自分に指一本触れなかった夫が許せない。
そして、彼女は工藤さんにこんな頼み事をしたのである。
「このままセックスもしないで生涯を終えるのは嫌です。東京には見知らぬ男女が出会ってセックスできるバーがあると聞いています。そこに私を連れて行ってください」
困り果てた工藤さんが「考える時間をちょうだい」と彼女を説き伏せ、とりあえず家に帰したところでエッセイは終わっていたのであるが、先日その続きを読むことができた。
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上の日記を書いたとき、「ハプニング・バーってどんなところなんですか」というメールをいただいたが、いやいや、私に訊かれましても。そういう店があるのを知っていたのは、昨年六本木のハプニング・バーで有名なAV男優が公然わいせつ罪で逮捕された事件があったからであり、行ったことがあるからではない。
というわけで、その質問はこちらがしたいくらいだワと思っていたのだけれど、今回のエッセイにかなり詳しく書かれてあった。
工藤さんの知り合いで行ったことがあるという三十代の男性によると、一組のカップルがソファの上ではじめ、他の客はそれを眺めている。終わると、男のほうが“ギャラリー”に向かって手招きし、次は三人の男性客が加わって・・・ということがあったという。
驚く工藤さんに彼は言う。
「見られて喜びを感じる人は平気でやっていますね。何人もの男性とプレイしたその女性も、終わったあとはそのへんのOLさんと変わらない地味なスーツに着替えて、すっきりした顔で帰って行きましたよ」
こういう話を聞くと、一口に「セックス」と言ってもいろいろな種類のものがあるんだなあと思う。
私自身は好きな人とのそれしか経験がないし、いまのところ宗旨変えする予定もないから、付き合っている男性に「君がほかの男としているところを見てみたい」なんて言われたら、目の前が真っ暗になるだろう。「この人は私を愛していないんだわ」と絶望するに違いない。
というのは、以前温泉の混浴風呂について書いたとき、「彼女とふたりで入っていたらあとから男性客が入ってきて、自分だけの宝物が人に見られたようで悔しかった」というメッセージをいただいたのだが、ふつうはそういうものだろうと思っているからだ。
それをより楽しむためにマニア化していくのは結構なことなのだけれど、それはあくまで「ふたりの世界で」という条件下での話。「第三者」という要素を取り入れることによる刺激の得方、セックスの幅の広げ方というのは、私にはちょっとついていけないものがある。
とはいうものの、パートナーが自分以外の異性と絡んでいるのを平然と見ていられる、それどころか見ていると興奮できるという人が存在すること自体にはまったく驚かない。
もし自分がセックスフレンドなるものを持つくらいそちらの欲求が旺盛、かつ開放的な考えの持ち主であったなら、そういう経験に興味を持った可能性は十分あるだろうと思うから。体だけの関係の彼に今度行ってみないかと誘われても、ショックなど受けないような気がする。
つまり、そういう店に出入りするのは遊びのカップルだろうと思いながら読み進めたわけだ。
・・・が、途中で「夫婦の客もめずらしくない」というマスターの弁が。えっ、そ、そうなの?だったら私の理解可能な範疇を超えているわ・・・。
すっかり話がそれてしまった。で、その後どうなったかというと。
「ところで、もしあなたがそこで四、五十代の女性と出会ったとして、相手しようっていう気になる?」
工藤さんは男性に尋ねた。そういう場所とはいえ、体型の崩れた熟年女性が裸になっても男性たちは困るだけではないかと思ったからであるが、彼はきっぱり、「もちろん大丈夫。僕は六十歳くらいでもちゃんとできると思います」と答えた。
それを聞いて、いっそのこと目の前の男性に彼女の相手をお願いできないものかと考えた工藤さん、親戚の女性に電話をかけた。すると、受話器の向こうから弾んだ声が返ってきた。
「私、やりました。あれ、やったんです」
なんでも、高校時代に好きだった先輩と再会したら、彼も当時彼女のことが好きだったことがわかり、自然とそういうことになったらしい。
工藤さんの元を訪ねたときに「誰か男の人とセックスできたら、ふんぎりがつくと思うんです」と言っていたとおり、彼女は離婚して人生をやり直すことにしたそうだ。
私はこのあいだ、「愛抜きでかまわないなら、ハプニング・バーでなくともそれを手に入れる方法はいくらでもある」と書いたが、そのとき思い浮かべたどれよりもすてきな“調達”の仕方だ。
二十年間抱えてきた満たされない思いをたった一回のそれで昇華したんだものなあ。やはりぞんざいに扱うようなものではないのだということ、それの持つ底力のようなものをあらためて思い知った私。
【参照過去ログ】 2005年6月20日付 「私の二十年を返して!」