2005年04月20日(水) |
「いい経験になった」だけでは(後編) |
※ 前編はこちら。
「裁判官は世間知らずだ」とはしばしば言われることである。
実際にそうなのかどうかは私にはわからない。しかし、勉強に明け暮れる学生時代を送り、会社勤めの経験もなく、“法の番人”として生きると決めてからは社交関係まで限定されるのだから、中にはそういう裁判官がいても不思議はないとは思う。
ビートたけしさんが常識外れの裁判官が多いのは社会経験がないからだとして、「いっそのこと、裁判官と弁護士と検事をぐるぐるローテーションで回すっていうのはどうだ。弁護士や検事をやってる時には酒も飲みに行けるし、世間の風にも当たれる」とエッセイに書いていたけれど、判決に対し「市民の感覚とかけ離れている」という批判がたびたび起こることを思えば、あながちふざけた話ではないかもしれない。
司法に対する国民の信頼をより高めるためには、たけしさんの言葉を借りれば「下々のことなんかわかってやしないからね」と人々が思っている部分をなんとかする必要があるだろう。
しかし、である。だからといって、“社会経験豊富な庶民”が下す判断は“社会経験に乏しく官僚的な裁判官”が下すそれより信頼できるものである、と言えるのだろうか。
司法の場において、民意は反映されさえすればよいというものではないはずだ。それは公正な判断でなくてはならないからこそ、「すべての裁判官は、その良心に従い、憲法と法律にのみ拘束される」と憲法で定められているのだ。
しかし、選挙人名簿から無作為抽出された人間に“公正な裁き”が可能なのだろうか。
裁判所から呼び出し状が届くまでのあいだに、私たちは容疑者が真犯人であることを前提とした事件報道をさんざん目にしているに違いない。それでも「現時点ではシロなのだ」と意識を切り替えて、彼を見ることができるだろうか。
「これを飲めば痩せる、あれを食べれば花粉症に効く」とみのもんたがしゃべれば、夕方スーパーの棚は空っぽになる。「鵜呑み」という言葉を思い浮かべる瞬間であるが、そういう影響されやすい人が裁判員になったら、弁護士の巧みな弁論に惑わされる可能性も十分考えられるのではないか。
いや、それでもまだ、提示された証拠や証言を吟味すれば有罪か無罪かは見えてくるかもしれない。
しかし、量刑の判断はどうだろう。これまで罪は法によってのみ裁かれねばならないとされてきた。が、法を知らぬ私たちにはそれができない。では、なにをもって裁くのか。
「市民の感覚」?
それはそんなにあてになるものなのだろうか。
公正な裁きを行うためには、個人的な感情や価値観を排除することが前提であると思ってきた。現行の裁判制度が裁判員制度に移行してもその部分は変わらない、どんなに被害者やその家族に同情しても、彼らの心情を汲んで刑を重くすることはできないのだ、と。
しかし、私情をはさまずに物事を判断するというのがどれほど難しいことであるか。しかも、裁判員制度の対象となるのは身代金目的の誘拐事件や放火殺人事件といった重大犯罪なのである。裁判員が被害者側に感情移入してしまい、冷静かつ理論的に考察することが困難な状況になることもおおいにありうる。
そんな中で、罪と罰の均衡について素人が判断することができるのだろうか。市民の感覚を生かすことができるとしたら、重大な刑事事件ではなく、たとえば国を相手取った訴訟事件や行政事件のような民事裁判でではないだろうか。
それとも、裁判員に「感情に流されない」とか「罪を憎んで人を憎まず」といったことははなから期待されていないのか……?
この制度があるべき姿で機能するかしないかは、裁判員に選ばれた人たちの資質にかかっている。しかし、どの程度のレベルを求められているのかが私にはわからない。
わかっているのは、法で裁かれるのと感情で裁かれるのとであれば、自分なら後者のほうが恐ろしいということくらいだ。
自分は七割の側だなんだと言ったところで、裁判員制度は四年以内に導入される。そして、国民が司法参加することの意義については私も理解している。
となれば、身の回りのことに関心を持ち、自分の考えを持ち、それを表明する訓練をするしかない。「私もみなさんの意見と同じです……」なんてもじもじしていたのでは務めが果たせないどころか、後々とまで罪悪感に苛まれなくてはならない。
そう思うと、この日記書きという趣味はいくらかは役に立っているのかもしれない。