2005年04月18日(月) |
「いい経験になった」だけでは(前編) |
十六日、裁判員制度に関する内閣府の世論調査結果が発表された。
裁判員制度が始まることは71.5%の人が「知っている」と答えたが、「裁判員として刑事裁判に参加したいと思うか」には70.0%の人が「参加したくない」「あまり参加したくない」と消極姿勢を示した。参加したくない理由(複数回答)では「有罪・無罪の判断が難しい」(46.5%)と「人を裁くのは嫌」(46.4%)が上位を占めた------という内容である。
これを伝える読売新聞の記事に、「昨年五月に弊社が行った世論調査でも七割が『参加したくない』と答えており、制度に対する国民の理解が一向に進んでいない実態が浮き彫りになった」とあるのを読み、そうだろうなと頷いた私。
だって、私のまわりがそうだもの。
友人の中には志願した人の中から選ばれるのだと思っていたのもいれば、制度の導入自体を知らなかったのもいる。
六十七人にひとりが生涯で一度は経験することになるんだよと言ったら、即座に「そんなん断るわ。そんなことで仕事休めるわけないやん」と返ってきた。彼女にとって、それは“そんなこと”なのだ。
職場の同僚は審理のために休んだ日数分の給料はどうなるのかと言った。休業補償はない、有給休暇扱いにしてくれる会社もまずないだろうと答えると、いともあっさり「じゃあ働いてる人は無理やん」。
私の周囲を見る限りでは、裁判員が国民の義務であるという意識が浸透しているとはとても思えない。
二〇〇九年までに実施されることはすでに決まっている。呼び出し状が届けば否も応もないことを承知の上で言うと、私は七割の側の人間である。
そもそも、それが「市民が裁判に参加することで一般常識にかなった判断がなされ、裁判制度に対する社会の信頼がより深まる」というねらいに応えるものになるかどうかについてかなり懐疑的なのだ。
最大の理由は、この日本にその資質のある人が無作為抽出が可能なほど大勢いるとは思えないから。
八日付けの新聞にこんな投書が載っていた。
「裁判員制度」にもっと関心を! (無職・74歳男性) 「裁判員制度」は早晩実施されるであろうが、種々の世論調査の結果などから感じられることは、もし仮に自分が選ばれたらどうしようかと、一歩腰の引けた意見の人が多いように思う。その主な理由は、素人の裁判員が判決に加わったような裁判では、裁判を受ける側としては納得がいかない――のようだが、検察審査員を経験したことのある私はそうは思わない。 七年前のある日「この度検察審査員に選ばれました」という一通の文書が突然舞い込んだ。委嘱状を手に一抹の不安と緊張した当時のことを今も鮮明に覚えている。それにしても、法律の予備知識などまったくない自分に、こんな大役が果たして務まるだろうか。言葉では言い尽くせない不安は確かにあった。 しかし大変いい経験、勉強になった。「裁判員制度」には人一倍強い関心がある。なれるものなら経験したい、とまで思っている。
検察審査員・・・検察官が不起訴処分にした事件について、それが妥当な判断であるかどうかを市民の常識で判断する。やはり有権者の中から無作為に選ばれる。 |
これを読み、こういう人が裁判員になるべきだろうと思った。「勘弁してくれよ、なんで俺がこんなこと」「早く終わらないかな、子どもを迎えに行かなきゃ」なんてことで頭がいっぱいの人が選ばれたら、目指すところの裁判など実現するわけがない。
が、その一方でこんな疑問も抱いた。
「『いい勉強になった』と思えることはすばらしい。だけど、裁判員は意欲さえあれば務まるというものでもないのではないか」
裁判員は法定刑に死刑か無期懲役を含む重大な刑事事件について有罪か無罪か、刑罰の内容を判断しなくてはならない。
その方法は裁判官三人と裁判員六人による多数決。つまり一票の重さがプロの裁判官のそれとまったく同等であるということ。これはものすごい重責である。
それが貴重な経験になるであろうことは間違いない。しかし、そのことと裁判員としての役割を果たせたかどうかは別であろう。
裁く側が「勉強になった」と満足感を持てるのは意義のあることではあるが、人ひとりの人生、場合によっては命がかかった裁判は誰かの“人生の肥やし”になるために存在するわけではない。その職務には当然、求められるものがあるはずだ。
「『参加することに意義がある』ではないだろう」
と思うとき、私はこの空恐ろしくなるほどの大役を務められる人がいったいどれほどいるだろうと考えずにいられない。 (つづく)