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2004年10月08日(金) 目指すべき場所(「それが、愛情。」追記)

十月四日付の「それが、愛情。」の最後に、最近多くの小学校の運動会で家族と子どもが別々に昼食を取る形式が採用されていることについて、
「『ビリの子がかわいそうだから、徒競走に順位はつけない』と同じところからきている発想だと思う」
と書いた。
これについて、「親が応援に来られない子どもに家族とお昼を食べる友達の姿を見せるのはかわいそう。全員が教室で食べるというのは思いやりと言える配慮なのではないか?」というご意見をいくつかいただいた。
ほかにも同じ感想を持った方がおられるかもしれない。先日のテキストでは軽く触れただけだったので、私の思うところを書いておこう。
その理由や事情にかかわらず、親が応援に来られなかった子どもにとって、家族と一緒にいる友達を見るのが切ないものであろうことは想像に難くない。そんな思いをさせたくないという心情はとても人間らしいものであり、私の中にももちろんある。
しかしながら、「全員が家族と一緒に食べるのをあきらめること」でそういった子どもたちを気遣うのではなく、もっと別の形で彼らをフォローすることはできないものか。私はそんなことを考えずにいられない。
「運動会の昼休憩に家族とお弁当を食べる」
このシーンが子どもにとって忘れがたい思い出になるということに異議を唱える人はそういまい。私はいまでも運動場の砂の上に敷いていたレジャーシートの模様やデザートの柿の鮮やかな橙色を覚えている。
このご時世だ、父親の仕事が忙しくてふだんはろくに話もできない、家族揃って夕食を取ることもできないという家庭はめずらしくない。そんな子どもたちにとっては、いや親にとっても、運動会のお昼は家族団欒の絶好のチャンスなのだ。
「応援に駆けつける人がいない子どもたちの中には、もともと両親がいないとか片親で仕事を休んでもらえなかったという子もいるでしょう」
というメールの一文には胸がきゅっとなる。うん、たしかにそうだ。
しかし、である。そういう子どもたちが切ない思いをするのは、おそらく運動会の日だけではない。○○式・○○会と名のつくもの、父の日・母の日前の図画工作の時間、日曜参観、お弁当が必要な遠足など、学校にはたくさんの行事がある。彼らはその日常において、クラスの友達とは比べものにならないくらい頻繁に「精神的にたくましくあること」を要求されているにちがいない。
「だから運動会も我慢できるでしょ」という話ではない。そうではなくて私が思うのは、友達の家族に混じったり、同じように親が来られなかった子どもたちと集まって先生と食べたりすることをみじめだと思わずにいられる明るさ、「僕んチはこうなんだから(しょうがない)」と受け止められる気丈さといったものを、彼らは周囲の大人が考えているよりもずっと早い時期から、またずっと切実に、必要としているのではないだろうかということなのだ。
そんなの酷だ、不憫だ、と私たちがどんなに眉をハの字にしたところで現実は変わらない、ということなのだ。
年端の行かない子どもがそうたやすく「よそはよそ。羨んでもしょうがない」の境地に達するとはもちろん思わない。思わないが、かけがえのない思い出の一ページになるであろう機会を多くの子どもから取りあげることに同意はできない。
全員が幸せや楽しみをレベルダウン、あるいはカットすることによって“均一”を図ろうとするのは簡単だ。実に手っ取り早い。しかし、そういう子どもたちに先生や同級生、近所の家族が分け与えられるものはないか、と彼らのベースを引き上げる方向に心を砕くのがあるべき姿ではないだろうか。その実現がいかにむずかしいか予測がついたとしても、目指すべきはそこなのではないのだろうか。
そして、私はその“分け与えられるもの”が「みんなで我慢」「みんながあきらめる」であるとは思わないのだ。

【あとがき】
実際に自分が経験していないことについて書くのは勇気がいります。私には運動会に来てくれる両親がいたし、いま小学生の子どもがいるわけでもない。だけど、経験があろうとなかろうといまの自分が真剣に考え、この身に感じていることは、これからも「そういう思いをしたことのないあなたにはわからない」と言われることを恐れずに書こうと思います。無知なら無知を、門外漢なら門外漢を自覚した上で。本当にたくさんの意見を聞くことができる。それまで知らなかった世界、味わったことのない感情の存在を教えてもらえる。恋愛の思い出話もいいけれど、得るものはこちらのほうがずっと大きい。