年上の友人が二ヶ月後の四十歳の誕生日を前に結婚相談所に入会した。
ホームヘルパーの仕事をしている彼女。ひとり暮らしのお年寄りを訪ね歩く中で、思うところがあったようだ。
「三十九っていうのと四十っていうのとでは印象がぜんぜん違うと思うねん」
と意気込みを見せ、先日もある男性と二度目のデートをしてきたばかり。その彼と初めて会ったときの報告を「外見も条件も悪くない。前向きに考えようと思ってる」と聞いていたので、私はてっきり今回で正式にお付き合いしましょうという話になったのだろうと思っていた。
が、彼女の表情がいまひとつ浮かない。
「私が神経質なんかもしれんねんけど……」
ひとつ引っかかる点があるのだという。タバコを吸わない彼女に「吸ってもいいですか?」と断ってくれるところまではよいのだが、吸い終わるとなんのためらいもなく地面に落とす。飲み終えたジュースの缶をベンチの足元に置き、「行きましょうか」と立ち上がる。一緒にいると楽しいし、仕事熱心そうだし、他に文句をつけるところはないのだけれど、彼女はそういうところが気になってしかたがない。
「普通のサラリーマンやったらここまで気にならんかったかもしれん。そのうち注意すればいいかと思ったかもしれん。けど彼、小学校の先生なんよ」
話を聞きながら、私は最近読んだ内館牧子さんの「別れる理由」というエッセイを思い出していた。内館さんの友人が恋人とドライブ中、彼が灰皿にぎっしり詰まっていた吸殻を窓から捨てたのを見て「この人とは結婚できない」と思った、という話だ。
女たちはたぶん、男が想像しているよりはるかに、公衆道徳に敏感なものである。好条件に目がくらんで結婚したとしても、そのマナーの悪さが結婚生活のストレスになることを予測している。
(『女は三角 男は四角』所収「別れる理由」 小学館文庫)
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と内館さんは書いておられたが、まったくそのとおりだ。マナーの悪さは知性の欠如、それは生活のさまざまな場面で顔を出すだろう。一緒にいる者はそのたび恥ずかしい思いをし、ため息をつかねばならない。
彼は四十年近く、吸殻や空き缶のポイ捨てになんの疑問も抱くことなく生きてきた。いまさらたしなめられたところで、彼女の戸惑いは理解できないに違いない。私は「そんなのささいなことだよ」とは言えなかった。
恋人のそういうところに目をつぶりながらだましだましやってきたという記憶は私にはないが、ちょっといいなと思っていた男性とふたりで出かけ、彼の言動に気持ちがぷしゅーとしぼんでしまった経験は何度かある。
それはマナーの悪さ云々の話ではなく、美意識のようなものが自分とは違うことが判明したためだ。
そういう場面で、私ははしゃぎつつも男性のテンションの変化や店員への態度、食べ方などをわりと冷静に見ている。小洒落たイタリアンレストランで、ある男性は迷わず奥の席に腰掛けた。私はボーイさんに椅子を引いてもらって座ったが、カップルがずらりと並んだテーブル席でソファに座っている男性は彼ひとり。そんなことにはまったく気づかず、終始無邪気だった彼とはこの先もどうにかなることはないと確信した。また別の男性はタクシーで家まで送るよと言って私を感激させたが、自分の親ほどの年齢の運転手さんにタメ口で行き先を告げた。そのときも私はとても残念に思ったものだ。
なんて言ったら、そんなことくらいでがっかりするのかと驚かれてしまうだろうか。
たしかに私はそのあたりは少しシビアかもしれない。しかし、傍にいる人間の目に自分がどう映っているかに思いが至らない人に知性や色気を感じるのはむずかしい。
週末、夫と夕飯の買い物に行く。いつものようにスーパーの袋は私が持つ。
「ねえ、夫が手ぶらで奥さんが重そうな袋を持って歩いてるのって、傍から見たらすごいかっこわるい図やと思うんやけど」
私には、駐車場までの短い距離なんだからいいじゃないかという問題ではない。よせばいいのに、「昔からこうだったかなあ?」を思い浮かべ、私は頭を垂れる。
【あとがき】 レストランで奥のソファに座るとか、電車でひとつしか空いてない席に自分が座るとか、スーパーで袋がふたつみっつになったとき、どれが重い軽いということを考えずに手近にあるのを掴むとか。そういう男性には萎えます。 |