朝、駅までの道のりは集団登校をする小学生と一緒になる。笛を吹いたり、友達とふざけあったりしながら元気に学校に向かう姿を見ていると、愛チャリ「小町号」のペダルを踏む足も自然に軽くなるというものだ。
しかし残念なことに、もう少し先に進んだところで毎回のように目にするある光景が、その爽やかな気分をぶち壊すのである。
小学校の目の前にある横断歩道で信号無視をする大人が必ずいるのだ。これが腹が立ってしかたがない。私も信号を悠長に待てる性格ではないが、子どもが見ている前ではぜったいにしない。どんなに急いでいても、車の影ひとつ見えなくても、「フリーズしてるんじゃないの」と言いたくなるほど気の長い信号であっても、子どもがひとりでもいたら青になるのをひたすら待つ。
ひと昔前の大人がしてくれたように、私が他人の子どもを叱ったりなにかを教えてあげたりすることはない。ならばせめてマイナスの働きかけはすまいと思う。これは前回のテキストに書いた“美意識”に通じるものだ。
子どもたちが赤信号を見つめる中、スーツ姿の若い男性が一旦停止もせず堂々と渡って行くのを見ながら、今朝も考え込んでしまった。いったいどういう神経をしているんだ。
朝刊に小学三年生の女の子のお母さんが書いた、こんな投書が載っていた。
近所の交番から電話がありました。娘が落とし物を届けたらしいのですが、それが小さなタオルだったため、『書類を作成しなくてはならないので、こういうものは届けないでほしい』と言われました。 あとで聞けば、お巡りさんは娘の前で私に電話をかけていたそうです。いいことをしたとはりきっていた娘の気持ちも少しは考えていただければ……と思いました。
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お巡りさんにとっては「こんなものでも届けられれば書類を作らなきゃならないし、面倒だなあ」というところだったのだろう。たしかに落としたタオルを探して交番を訪ねる人はいない。
しかし、それを拾ったとき、落とし主が困っているか困っていないかを金銭的価値の程度で判断するのは大人だけなのだ。そして、それは子どもに見せるべきでない大人世界の“要領”だ。
「もしまたタオルを拾うことがあったら、今度は落とした人が見つけやすそうなところに置いておいてあげてね」
それでよかったのに。大人の都合で、子どものものを大切に思う気持ち、落とし主を思う優しい心をぺしゃんこにすることはないじゃあないか。
受話器を取りあげる前にほんの一瞬、子どもの頃を思い出してほしかった。たとえ十円でも拾ったら交番に届けなくっちゃ!と思っていた時代があったはずだ。
数日前の新聞で、男性教諭が算数の授業中に「七人で銀行強盗をして札束を山分けしたら二束足りません。そこで二人を殺しましたが、それでも二束足りません。札束は何束でしょう?」という問題を出し、厳重注意を受けたという記事をご覧になった方は多いと思う。その話を友人にしたところ、彼女は「それを言うなら、うちの子(小学二年生)の担任だってたいがいやで!」と声をあげた。
授業中に子どもから出た「ペットショップで売れないまま大きくなってしまった犬や猫はどうなるの?」という問いに、「海に流す」と答えたというのである。「かわいそう」と子どもが親に話したために事が発覚、四十代の男性教諭は冗談のつもりだったと保護者に謝罪したという。
なにを考えているのかわからない大人というのは新聞の中にしかいないというわけではなかったのだなあ。
ここで今日の日記を終えるとあまりにも哀しいので、スクラップブック(私は新聞で興味深い記事を見つけると切り抜いて取っておく習慣がある)の中から、ふた月ほど前に投書欄で見つけた文章を。
ひとりでに落ちたのか、心ない人に投げ捨てられたのか、川岸に猫の死がいがありました。多くの人の目に触れ、みんな気になっているようです。自分で処理する勇気がないので、市に処理してもらおうと電話をしました。 やがて市の河川課の方が来て、手際よくビニール袋に入れて見えないように箱の中に入れ、川から上がってきました。その様子を見ていた四、五歳の子供たちが「燃やすの」と尋ねると、職員は「お墓を作るんだよ」と答えていました。「そうか」と子供たちは納得し、安心して遊びに行きました。 実際は、生ゴミと同じ扱いなので、燃やすのだそうです。若い職員の心ある言葉、素早い対応をうれしく思いました。 (長崎県佐世保市・48才女性)
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私はとっさにこんなふうに答えてあげられるだろうか。