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2003年12月26日(金) 悪意の有無にかかわらず

作家の乃南アサさんが公共施設のトイレでしばしば出くわす「我が目を疑いたくなる光景」について書いているのを読んだ。
ある店で個室がひとつだけのトイレに入ろうと扉に手を伸ばしたら、ちょうど若い女性が出てきた。彼女に替わり中に入って驚いた。洗面台の中が泡だらけになっていたのだ。
席に戻りながら先客だった女性を目で探したところ、「いかにも清楚なお嬢さん」な彼女は隣の若い男性ににこやかにビールをついでいる。思わず「あの泡は全部私が洗い流したんだからね。誰が知らなくても、私が知ってるんだから」と心の中でつぶやいたという。
私は日本のトイレの清潔さ、美しさは世界に誇れるもののひとつだと思っているが、利用者のマナーの悪さゆえに閉口することはままある。洗面台に髪の毛が散乱していたり、トイレットペーパーが床をのたくっていたり、汚物がきちんと始末されていなかったりといった惨状は、多くの女性が目にしたことがあるだろう。
乃南さんはそれらに対し、「明らかに悪意を感じる。憂さ晴らしか、嫌がらせか、それとも悪戯のつもりか」とひどくご立腹。私はそこまでは思わないけれど、利用者のひとりとして不愉快に感じていることに変わりはない。
今朝もスポーツクラブのトイレでこんなことがあった。個室から出てきた女性が扉の外で待っていた私に気づき、そそくさと立ち去った。紙巻器の蓋を開けたら一片のトイレットペーパーがはらりと舞い落ち、その表情の訳を知った。
こういうとき、腹が立つより「なんなのだろう」という思いが先に立つ。ペーパーの予備は個室内の棚に置かれている。いまどきの紙巻器はワンタッチで交換できるようになっているから、ものの五秒で済む話である。にもかかわらず、そのままにして出てくる。
ロールの包み紙を剥がすのがそんなに面倒なのだろうか。わざわざペーパーを十センチ残してはさんでおくのは、「まだあと少し残っているから取り換えなくてもいいよね」という、後ろめたさをかき消すための自分への言い訳なのか。それとも、すぐ後にそこに入る人に対するものなのか。

街で目にするなにかを呼びかけるためのポスターや五・七・五調の標語に、「過保護だなあ、無意味だなあ」と思うことは少なくないが、トイレの壁に見つけるそれもまた例外ではない。
男性はご存知ないと思うが、婦人用のトイレには利用に関する「お願い」の文句がいろいろと存在する。たとえば「来たときよりも美しく」「いつもきれいに使ってくださってありがとうございます」といったフレーズであるが、それらの貼り紙の真下に使用済みの脂取り紙やペーパータオルが丸められて放置されているのを見ると、なんの意味もなしていないことがわかる。ちなみに私の職場のトイレには「トイレットペーパーを手拭きに使用しないでください」という救いようのない注意書きが存在する。
扉の外や列の後ろに控えている人に、「あの子はなにを考えているのだろう」と……いや、「なにも考えていないんだな」と思われるのは、私ははずかしい。シャワールームで湯音調節を「COLD」にしたまま出てくる人がときどきいる。うっかりしているとキャ!と叫ばなければならないわけだが、彼女のあたまには次に使う人のことなどまったくないに違いない。
悪気がないのはわかっていても、気のつかなさというのはけっこう傍迷惑なものである。

<追伸>
職場からここをご覧くださっている皆様へ。
今日でしばらくお別れになりますね。毎回長いテキストを読んでくださって本当にありがとう。
冬休みを満喫してください。そして(かなりフライングですが)、どうぞよい年をお迎えください。また一月五日にお会いしましょう。

【あとがき】
必ずといっていいほど貼ってある「トイレットペーパー以外のものは流さないでください」というあれ。そんなこと書かなくてもわかるだろう、いったいなにを流す人がいるというんだよ、と長いこと思っていたのですが、あれはポケットティッシュのことを指していたのですね。トイレットペーパーは水に溶けるからOKだけど、ちり紙は溶けないからやめてくれ、ということだったのだと気づいたのは恥ずかしながらかなり最近のことです。