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2003年07月02日(水) 許してね。

北川悦吏子さんのエッセイの中におもしろいくだりを見つけた。北川さんといえば、『愛していると言ってくれ』『ロング バケーション』などを書いた売れっ子脚本家であるが、彼女は過去に書いたラブレターはすべてドラマの中に収録済みだという。
最初の頃こそ、おなかを痛めて生んだわが子を荷馬車に乗せて売りに行くような気持ちで胸が痛んだが、締め切りを前にするとそんなセンチメンタルなことは言っていられない。そうして必要に迫られているうちに次第に慣れ、いまでは書きあげた瞬間から「これはいつか金になるかも」と思うことさえあるのだそうだ。
私は思わず、「あ、それわかるなあ」と頷いていた。もちろん日記書きとプロの仕事をいっしょにするつもりはない。が、北川さんの「プライベートなラブレターを公に晒す」は趣味で書いている私にもズバリあてはまることである。
私はつねづね思っている。読ませるテキストを書くことができる人は必ずといってよいほど、絶好のポイントで過去の経験や適切な情報を上手に引っぱり出してきて、エピソードとして挿入する能力に長けている、と。
文法的に間違いのない文章を綴ることができるとか、語彙が豊富であるなんてことはたいして重要ではない。例え話の上手な人の話がわかりやすいように、そのテキストが骨太で身の詰まったものになるかどうかは、書き手のキャラや主張を裏打ちするような挿話を絶妙のタイミングで盛り込むことができるか否かにかかっているのだ。
そんなわけで、私も書くときには必ず「使えそうなネタはないかしら」と記憶の貯蔵庫を漁ることにしている。
ご承知のとおり、私はここで愛だの恋だのについて書くことが多い。思えば、相当な量の「ラブレター」を放出してきたものだ。もっとも、波乱万丈な恋愛人生を送ってきたわけでなし、過去に書いてきたあれやこれやは誰でも身に覚えがあるのではないかしらと思うほど、ありきたりなものばかりであるが。
たとえば、「スペア取ったらいいことあるかな」「じゃあキスしたるわ」(2003年5月12日付「ボウリングの思い出」)とか、「手の平がさみしいナー」「しゃあねえなあ」(2003年6月21日付「フェチ・コメント発表」)といったエピソードを万が一彼らが目にすることがあっても、書いているのが私であると知らなければ、自分のことだとは気づかないにちがいない。
しかし、もし気づいたとしたら。「よくも人のことを無断で」と怒るだろうか。「すぐに削除してくれ」と言うだろうか。
いや、そんなことはないのではないかしら……。図々しくも、私はそう思っている。
「だって嘘は書いてないもん」とか、「ドラマで何千万人にお披露目されるのに比べたら、罪は軽いでしょ」なんてことが理由ではない。「あなたがたのことはいつも愛情と感謝を込めて大切に書かせてもらっている。テキストの中で不当な扱いをしたことは一度もない」という思いが、苦笑いですませてもらえるのではないかという楽観を生んでいる。
北川さんは「こうして私は過去のラブレターを何度か売ったが、実際にそれを渡した相手には、バッサリ切られる覚悟をしている」とおっしゃっているが、私が彼らに殴られたり絶交されたりすることはたぶんない。

……と思っているのが、これはもしかして私のとんでもない勘違いなのだろうか。実は先日、そんな不安がちらりとあたまをかすめた出来事があった。
お時間のある方は読んでくださるとうれしいのだけれど、ある女性がご自分のサイトで、私が以前に書いたテキスト(2003年6月11日付「ひとこと言わせて。」について、「夫の悪口を書いた日記」と表現しているのを見つけた。
「悪口」の二文字を見て、私は心底驚いた。そんなものを書いた覚えはまったくなかったからだ。それを辞書で引くと、「人を悪く言うこと」とある。しかし、実際には日常生活の中のネガティブな発言すべてを「悪口」という言葉でひと括りにする大人はあまりいないのではないだろうか。
多くの人にとってのそれは、たとえば「正当性に欠ける」「悪意に満ちた」「面と向かって言えないことを陰でこっそり」といったニュアンスを持つ、非生産的でかなり低次元な代物ではないかと思う。
あれは夫に対する不満であり、抗議であり、要求である。私にとって、それらは悪口とはまるで質の異なるものだ。愚痴や文句だと受け取られるのは無理ないとしても、悪口とは心外だと思った。もし彼女のほかにもあのテキストを読んで「どう見ても悪口でしょ」と感じる人がいるならば、私は言葉の選び方のまずさ、表現の未熟さにあたまを抱えなければならない。
私たちは自分の書いたものが読み手にどう読まれたかを知ることはほとんどできない。しかし、それは案外幸せなことかもしれない。もし解釈の行方がわかったら、「なんだ、ちっとも伝えられていないじゃないか」といちいち自分に腹を立てたり落胆したりしなくてはならないだろう。

<追伸>
過去におつきあいのあった何人かの男性と、今後もおつきあいのつづくひとりの男性へ。
「悪口なんか書かないよ。だからこれからもちょくちょくご登場願うこと、許してね」

【あとがき】
だから、挿話の原材料となる経験と知識の貯蔵庫が充実している人の書くものは読み応えのあるものが多いですね。自分が書いていても思うのだけれど、当時は気にも留めなかった瑣末な出来事が、小さなエピソードとしてテキストに差し込んだとたん、鮮やかに発色することがあるんですね。それのあるなしではテキストの厚みがまったくちがってくる、という不思議な現象。私は文章を書いているかぎり、人生に無駄な経験などひとつもないと心から思うことができます。