2003年06月15日(日) |
私がテキストの中で使えない言葉 |
内館牧子さんのエッセイの中にこんな話があった。あるとき、彼女の元に担当編集者から「原稿の中の『女』という言葉を『女性』に直したいのだが、かまわないだろうか」という内容のファックスが届いた。
それを見た内館さん、大あわてで返事を送った。
「『女性』にはぜったいにしないでください。『女』がどうしてもダメだというなら、『女の人』にしてください」
彼女は「女性」「男性」という言葉が鳥肌が立つくらい嫌いで、これまで文章の中でも日常会話でも一度も使ったことがないという。
「女」という言葉はやや下品で、フェミニズム臭があり、突っ張った感じがする。だから言葉を言い換えたいと編集者が打診してきたのだ、ということは内館さんにも見当がついた。が、彼女は逆に「女」より「女性」のほうに淫靡な匂い、とりすました無表情なものを感じ、生理的な嫌悪感を抱いている。どうしても使うわけにはいかない。
最終的には「女」のままいくことで決着したのであるが、もしどうしても「女性」でなければ困ると言われたら、その原稿は引きあげるしかないとまで思っていたのだそうだ。
彼女の中には「粋か、野暮か」という尺度があり、その思考、行動はつねに内館流の美学に貫かれている。言葉を扱うことを生業とする者がそれを選ぶ際に微細な語感にまでこだわるのは当然といえば当然なのだが、この頑固さが私は好きだ。
「鳥肌が立つ」とか「生理的に嫌」といったニュアンスではないのだが、私にもテキストにはぜったいに使わない言葉がいくつかある。
使わないというより、「使えない」といったほうが正しいかもしれない。たとえば自分のことを「作者」、読みに来てくれる人を「読者」と呼ぶこと。
その一線を画した感じが、私はどうも好きになれない。それを口にする人にそんなつもりはないのだろうが、「作者」「読者」と聞くとつい、へえ、自信があるんだなと思う。「読者」という呼び方には、書き手が彼らのことを「自分の(テキストの)ファン」と自認していることが表れているようでこっぱずかしいのだ。その立ち位置が適切だと感じるサイトもあるにはあるが、その言葉を使うにはちょっと力不足な気がするなあ……と感じる場合がほとんどである。
そんなわけで、私はいつも「書き手」「読み手」という言葉を使う。内館さんと編集者のあいだに「女」に対する印象の違いが存在したように、もしかしたら「読者」より「読み手」のほうが突き放した感じがするとおっしゃる向きもあるかもしれない。が、おこがましくて使えないと私に思わせるのは「読者」のほうなのだ。
同様に、私は自分の書いているものを「エッセイ」と名乗ることもできない。「つまらないものを読ませてすみません」なんて卑屈な気持ちは持っていないが、たまに「貴女のエッセイを読みました」とメールで言われ、とんでもないとつぶやくのは決して謙遜ではない。
私にとって日記とエッセイは、書き手に求められる力量も読み物としての完成度の高さもかなりちがうものなのだ。
「エッセイ」を辞書で引くと、「見聞・体験・感想などを気ままに書くこと。随筆」とある。たしかに日記とエッセイはどちらも「私」を語るという点でよく似ている。
しかし、前者が終始、主観に依存して書かれたものであってかまわないのに対し、後者には客観的な視点がいくぶんか必要で、なおかつ全体としてひとつのまとまりを感じさせるようなものでなければならない。日記は誰にでも書けるが、エッセイやコラムと呼べるものとなるとそうはいかない。なぜなら、前者を名乗るのに資格はいらないが、後者には質が求められてくるから------というのが私の認識なのだ。
なにをもって日記とする、エッセイとする、なんて野暮な話だ。素人が趣味でやっていることなんだ、そんなカテゴライズはナンセンス。
うん、まったくだ。しかしながら、「日々のあれこれを面白おかしく綴ったエッセイです♪」に引っかかりを覚えるのも本当なのだ。
以前、林真理子さんが著書の中で、タレントが本を一、二冊出したくらいで臆面もなくエッセイストだの作家だのと名乗る昨今の風潮に苦言を呈していた。「直木賞をいただくまで、私は自分で『作家』と名乗ったことはない」のくだりを読んで、そうだよなあと頷いた私である。
肩書きでもなんでも、中身の伴わない「自称」ってかっこわるい。
【あとがき】 「作る人」と書いて「作者」だから、意味としては日記を書いていればそう名乗っても間違いではないのだけど、私自身はその言葉を自分に使うのはおこがましくてできません。私が読み物の中でも作家のエッセイをよく読んでいて、それが凡人に書けるほど易しいものじゃないと思っているからでしょう。 |