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- 2006年03月28日(火) ∨前の日記--∧次の日記
- 父は尊厳死でした。

そんげん‐し【尊厳死】
人間としての尊厳を保ったままで命をまっとうすること。
回復の見込みのない状態や苦痛のひどい状態の際に
生命維持装置を無制限に使わないなどの対応がなされる。




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尊厳死疑惑がニュースとなっている。



富山県の市民病院で00年〜05年の間に、末期患者7人が人工呼吸器を取り外されて死亡した。
病院の担当外科医が「家族の同意を得た」として延命中止行為を施したという。

疑惑の渦中にいるのが、この市民病院の外科部長(50)。
死亡した7人のうち6人は「家族の同意を得た」とカルテに記載されているが、同意書はないらしい。
残る1人は、「患者本人の意思を推定させる家族の意思」があったが、やはり同意書はないとのこと。

今回の疑惑発覚のきっかけとなったのは、
昨年10月9日に入院した前述の7人とは別の脳梗塞患者の一件だという。
入院3日後の同12日に、外科部長が人工呼吸器を取り外すよう指示したが、
この件を知った看護師長が院長へ報告して、院長が中止させた。

この件について外科部長は「家族の同意を口頭で得ている」としているが、
この家族は「説明も受けていないし、同意もしていない」と新聞の取材でコメント。
発覚前に死亡した7人の「家族同意」のカルテ記載にも疑惑がかけられている。



これは、未だ法制化されていない所謂「尊厳死」なのか?、
それとも単なる刑法199条の「殺人罪」なのか?


現在、富山県警による捜査が進められている。





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渦中の外科部長の人柄について、周囲の評価は下記の通り。

「自分の意見が強い人。ただ、一生懸命に仕事していた。
今回の件は熱意が高じて、ということもあったのではないか」
(他の診療科の医師談)
「患者に受けのいい、人間的にも医師の技術も素晴らしい男だった」(院長談)
「モラルを軽視する人ではなかった。信念を持っていたと思う。
どういう思いでやったのか、本当は何をしたのかを聞きたい」
(院長談)

【上記すべて、毎日新聞/ 3月26日21時36分更新記事より】



こういったコメントから察するに、この外科部長は今回発覚した件も含め、
過去の延命中止の措置は、決して悪意ではなく手抜きでやった事でもなく、
自らの信念を持ってやった行為なのだろう。患者と家族を想った結果、
想いが講じて勇み足的な決断を下していたものと感じる。





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整理すると今回の問題は、法制化されてないことに尽きる。
「同意」の認識や「死期」の判断が、捜査や司法判断の焦点になるが、
法制化されていない以上、終末期患者への臨床対応は各現場や医師で異なって当然。


ちなみに、過去に判例が存在する。
平成7年の東海大病院事件判決で、横浜地裁が示した安楽死の要件は
(1)死期が切迫している
(2)耐え難い苦痛がある
(3)苦痛除去・緩和の手段がない
(4)本人の意思表示がある(患者本人の意思を推定させる家族の意思も含む)

の4つとのことだが、いずれも明確なガイドラインとするに至っていない。


法制化に至らない背景としては、「経済苦などを理由にした積極的な安楽死や
尊厳死を助長する」
と主張する反対派の存在があるからだ。


だが、実際に現場で起こっていることを直視すべき。
一刻も早く法制化してほしい。






しかしだ・・・、司法の判断はそれはそれとして、私は思う。それは・・・




「尊厳死」って一体何なんだ?と。






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今日のタイトルでふれましたが、
三年前に、私は父の尊厳死に同意してサインしました。



2002年の4月10日未明、父は脳梗塞で倒れて危篤状態となった。
同日の午後3時頃。担当外科医に呼ばれたのは、母、私、次男、叔父の4人。
外科医からレントゲン写真を見せられながら、父の状況の説明がなされる。

脳の右側へ血栓が飛んで脳梗塞となり、脳の右側大部分が壊死。
父は左利きで、脳の右側に言語野などがあったと思われ、
意識障害、言語障害、聴覚障害が発症しているとのこと。
その話を聞いた時に床が沈んでいく感じがした。その感覚は今でも思い出す。

外科医は一刻を争うかのように説明を続けた。
父の脳の右側が内出血で肥大化し、このままだと早くて数時間後には、
脳の中央の底にある脳幹を押しつぶしてしまうとのこと。
これを回避するには、頭蓋骨を一旦取り外して、頭蓋と脳の間に空間をつくり、
脳の肥大を外側へ逃がすようにする手術が今すぐにでも必要との話。




私は「その手術をして父は助かるのか?」と聞いた。
医師は「もしこの手術が最大限に成功して、今日明日のことではなく
もっと長くお父様の命を助けることが出来たとしても・・・・、
お父様の意識が戻る可能性はもうありません。あくまで・・・延命手術です」

「延命手術」

私はもうすでに、この返答を予感して質問していた。他の3人は言葉を失っていた。
言葉も戻らない、視覚も聴覚も戻らない、何よりも自意識が戻らないのだ。

「ひょっとして、これは『死』なのか?」という疑問が浮かぶまでに時間を要した。
「何が『死』なのか?父はもう死んでいるのか?」私は、頭がおかしくなりそうだった。

医者が尋ねる。
「この手術をするにも、もしくは、しないという決断にも、皆様の同意が必要です。」



我々は「少し考えさせてください」と応えて、事務室を出た。





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決断までのタイムリミットはおそらく3〜4時間しかなかった。
我々は、重く重く圧し掛かった気分を立て直すためにも、あえて病院近くの
ファミレスへと向かった。冷静に冷静に考えて、判断しなければいけない。
各自、食事を無理やり押し込んでから話を始めた。

4人で話したのは、父が入院前に示していた言動や意思表示、父の思い出、
そもそも父とはどういう人間であったか?何を幸せと感じる人であったか?
我々にとって父とはどういう存在であったか?・・・・・など。

大事なのは、我々は「父本人に代わって決断する立場」であること。
我々家族の側からすれば、たとえ肉体的な生であっても、
父をこの世に存在させ続けたいと思うのは当然である。あたりまえだ。
しかし、父にとってはどうなのか?そう考えるが故に上記の話となった。


皆の話を総じてみると、父は「カッコつけたがり」であった。
特に病気に関しては、具合が悪くても我慢してしまう。
お金がかかって迷惑かけると黙ったまま医者に行かないのだ。
結果的にそれが死期を早めてしまったわけだが、そういう父だった。
実際に末期を迎えた時のことも母に話していたそうで、
「延命手術みたいなことはやめてくれ」と云っていたとらしい。
人との交流が好きな一方、一風変わった頑固なこだわりがある父であった。
人を驚かせたり喜ばせたり悩みを聞いたりなど、やっぱり父は
人と接している時が一番幸せそうな顔をしていたと思った。






そうして、私は一つの結論に行き着いた。
私は母に下記のような説明をする。

父にとって、家族や友人を感じることができず、自己表現もできず、
ただ形式的な生というカタチでこの世に存在することは、
人間として存在する意味を持たない・・・と思っているはず。
肉体的にも、感覚がなく表現方法を失っただけで苦しく痛いはずだ。
臓器は痛がっている。肉体をも痛めながらカタチだけの生を続けるだけ。
父にとって延命措置は何の意味も持たないどころか、ただ苦しいだけの措置だ。

叔父も弟も頷いた。母は後ろめたく諦めきれない様子だった。無理もない。
しかし「皆がそういうなら・・・」と、黙って何度も何度もうなづいていた。


そうして午後7時。
我々4人は再び、担当外科医の医室を訪ねた。





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一人の人間の「尊厳」を、傍にいる家族が考えるというのは、
つまり、上記のような話になるのではないか?

間単に答えが出せるものではない。だから尊い。


患者にとっての「人間の尊厳」と、患者の家族にとっての「肉体的な生の維持」


両者の葛藤の結果、家族は尊厳死に同意するか否かの決断を下す。
この決断は、丁重に扱われるべき重く尊いものでなければならない。


それを書面でなく口頭で済ませた時点で

そんなの尊厳死じゃない!






今回の事件の外科部長は、発覚当初に
「口頭だが家族に同意を得た」「これは尊厳死だ」と強く主張していたという。

確かに外科部長は、丁寧に信念を持って治療にあたっていたに違いない。
だが「尊厳死」というならば、「人間の尊厳」をどう考えていたのか?

私はその部分についてのみ、外科部長はあまりに手続き的だったと思う。
「尊厳死」と主張しながら、「尊厳死」の取り扱い方をしていない。



尊厳死の決断・同意は、
口約束とカルテ上だけで管理するものではないと思う。
その決断は書面で取り交わされるべきもの。

同意書というのは、家族の尊い決断を尊重し丁重に取り扱うという
病院側の意思表示であり、決断した家族への敬意だ。




「尊厳死」と主張するなら、そういう行為があってしかるべき。





********************************





3年前の4月10日午後7時、医室を訪れた我々は、
担当外科医に「延命措置の中止」を伝えた。

その後、しばらくして差し出された同意書について、
どういう体裁で何が書いてあったかなんて、殆ど覚えていない。
でも、それが出されて、その書面にサインしたことは間違いなく覚えている。


翌日4月11日の午後3時過ぎに、父は死んだ。





実際、末期治療の臨床に立ち会っている家族にとっては、
こうした手続きがどうであろうが、書面だろうが口頭だろうが、
その瞬間にはどうでもいいと想う。事実、私はよく覚えていない。

しかし、今考えると、もし口頭だけのやりとりであったなら、
未だに私は、その決断をした罪悪感やうしろめたさを強烈に感じていたと思う。
そうでなくても、今なお、あの時の決断を思い返すことがあるのだ。

なんとなくだが、書面にサインしたあの一連の行為により、
病院側がとても大切な何かを丁重に受け取っているかように感じ、
私の決断に対して敬意を払われているかのように思えた。
ほんの少し救われる気分がしていたのは事実だ。




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司法がどう判断しようと、何を条件として尊厳死を法制化しようと、
それはどこで線引きするかの話だ。決まったなら今後それに従えばいい。

ただ、法がどうであっても、
「尊厳死」という言葉はすでに存在して使われている。
その言葉を簡単に扱わないでほしいと思うのだ。




060328
taichi

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