せらび c'est la vie |目次|昨日|翌日|
みぃ
後日談である。 その気違い男の高級アパートを出てから、半年以上経った頃の事である。 ワタシはその頃にはもう一回引越しをして、現在の住処でやっと、ひとり静かに暮らし始めていた。いや、全く、他人の精神の問題とか身勝手な生活振りとかに振り回されないで済むのは、本当に気が楽である。 ある日、友人から知らせが届いた(今回は「生臭坊主」的なのではなく、本当の友人)。 例の気違い男が、最近又掲示板にて奇妙な議論を繰り広げており、奴に反対意見を述べる人々をまたワタシの仕業と勘違いして、「テンパった」書き込みを続けているという。 それだけならまだ笑って済むのだが、仕舞いに「こそ泥の様に夜逃げをして、随分手慣れたものだな。しかしこういう嫌がらせをいい加減止さないと、日本のご両親に連絡して何とかして貰わないといけないから承知しておけ」等と捨て台詞を吐いているので、これは友人として一報入れるべきであろうとの配慮であった。多謝。 そう言われて、ワタシはその当該掲示板を覗きに行ってみた。成る程、よくよく読んでいくと、事情を知る人なら、これが誰の事を言っているのか分かってしまうだろう。脅しのつもりなのだろうけれど、しかしこの奴のテンパリ振りからすると、更に個人情報を暴露しないとも限らないから、ワタシは俄かに心配になってきた。 しかも、奴等がこれまでにどれだけ広範に渡って噂を撒き散らしたのかは知る由も無いから、この街の二ホンジンコミュニティでワタシと奴との事情を知る人がどれ程居るのか、見当も付かない。 尤も、それに返事を付けている人々の中には、なんでここで「日本の両親」の話が出てくるの?アンタ何の話してるの?といったような、全く事情を知らない人もいた訳で、それはまあ当然の反応ではあった。 しかしワタシは、自分ひとりの事ならどうにでもなるけれど、無関係の家族を巻き込むのは反則だと思ったので、まず実家の親父にメールを打って、以前の同居人で一寸可笑しいのがいて、ワタシはもう引っ越したのだけれど、変な言い掛かりを付けて来るので、万が一そちらへ電話が来たら、娘に嫌がらせをするのは止さないとこちらも取るべき手段を取るぞと言ってやってくれ、と書いた。 それから奴の奥さんにまたメールを書いた。それは概ね、次の様な内容である。 お宅のダンナがまた妄想を起こして、インターネット上でワタシに嫌がらせをしていると聞きました。ワタシの新居には、お宅に居た頃のようなケーブル回線も無ければ、月極めの限定アカウントを使っているので、ネットサーフィンなどしている余裕もなく、近頃はネットの掲示板からも遠ざかっております。それで先日友人からの知らせで、漸く今回の件を知ったくらいです。そこで出来れば奥様の手で、ワタシが入居した際お渡しした日本の両親の名前や連絡先などの個人情報を速やかに処分して頂きたいと思います。もしこういった個人情報がお宅のダンナによって悪用されるようですと、こちらとしても何らかの防衛手段を取らざるを得なくなりますし、またワタシとしては既に色々と問題のあった皆様とこれ以上溝を深めたくないとも思いますので、お互い今後の面倒を考慮して、ここはひとつご理解の程、よろしくお願いします。 彼女から返事は来なかったが、その代わり掲示板でのダンナの書き込みは、以後すっぱり止まったそうである。以前にも、奥さんが小言を言ったら当分書き込み自粛という事が何度かあったから、これは余程効果的なのだろう。 それからまた何ヶ月かして、ある日不用品を売り出そうと思って、ある掲示板を訪れた。そうしたら、そこの引越しセールの広告に見覚えのある家具がどっさり載っているのを発見した。 それは紛れも無く、あの家に置いてあった食卓だとかテレビだとかベビーベッドだとかコンピューター机だとか大型ベッドだとか、そういう家財道具一式だった。 ワタシは、彼らはあの高級アパートを出たのだなと思った。悪くすると別居とか離婚かも知れない。いや、驚くには値しないが、何とまあ、気の毒な男だろうと思った。 それから暫くして、また幾つかの掲示板で、どうやらあの気違い男ではないかと思われる執念深い書き込みが時折現れるようになった。好みのネタがジェンダー問題とか文化的偏見といったように似通っていて、またねちねちと執拗に攻め立てるところも、あの男にそっくりである。 そうやって突っついて、誰かが反撃や反論をして構ってくれるのを、気長に待っているのである。 また、奴は以前から、この街の二ホンジンを集めて「飲み会」だとか「合コン」だとかいうような催しをする「サークル」というのに参加していたが、近頃ではそれの「幹事」とか「リーダー」とかいうような肩書きで、率先して企画開催などしているようである。 これらの活動は全て一世の二ホンジン、純二ホンジンを対象にしていて、つまり日本社会で行われている事をそのまま他国へ持ち込んでやっているものである(殆どの場合は、日本食のレストランやバアを渡り歩くので、出費も嵩む)。 そこでは、奴のように在住二十年選手から最近やって来たばかりの若い留学生や会社員などもいて、長く居る奴等が先輩面するのに打って付けの場でもあるし、また同世代の現地人と友達になれないでいる気の毒な中年長期在留者が唯一(一回りも二回りも年下の)「友達」を作る場でもある。 異国の街でそこだけが、その独特の慣習とか「気遣い」とかいったものの通用する、「日本」なのである。 ワタシはこの男と一切関わりが無くなって久しいけれど、しかしこの街に長く逗留すればする程、奴を知る人間もまた多く居るらしいという事に気付く。 後に人伝に聞いたところによると、奴はワタシの事を「勉強のし過ぎで頭がおかしくなった、執念深い気違い女」などと言って、噂をばら撒いていたそうである。 そんな噂をされる程がりがりと勉強した覚えは無いし、当のドクター様程幾つも学位を持っている訳ではないのだが、裏を返せば、それくらい奴等にとってワタシの存在は脅威であったという事なのだろう、と思うようにしている。 しかしこの一連の件があって以来、ワタシはすっかり人間不信に陥ってしまったし、またこの街が何だか鬱陶しくて仕方が無くなってしまったのである。 「蟹座の気違い男」 終。
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