せらび c'est la vie |目次|昨日|翌日|
みぃ
いつもなら、奥さんは夕食が済むと、仕事がまだ残っているからと言って、さっさと居間の隅にあるコンピューターに向かってしまう。可哀想にダンナは一人残され、孤独にテレビを見ながら、程なく酔っ払って愚痴を溢し始める。 ダンナの側からしてみれば、こういうコミュニケーション不足から来る淋しさが、ネット依存だとか愚痴の多さだとか奇怪な言動だとかに繋がっているのだから、それらはつまり早く気付いて欲しいというサインを出している訳である。一刻も早い措置が必要な精神状態である事は、傍で見ているワタシにも容易に理解出来る。 しかし逆に奥さんの側から見てみると、これで意外とそういう事にはとっくに気付いていて、そういう依存的なダンナが重たくて仕方が無いから、わざと自分を忙しくして避けているのかも知れないなとも思う。彼女は若いし、また自立していて、行動力もある女性だから、奴と違っていつまでも愚痴愚痴とやっているような性質ではない。 食事に誘われたり、またワタシの食事の時間帯が偶々重なったりして、止むを得ず一緒に飲み喰いをする羽目になると、この連夜の愚痴に悩まされた。 こうなるともう、飲まないでは相手をしていられないので、ワタシも勧められるままビールを頂くのだけれど、しかしワタシは奴と違って、ビールニ本切りではああも酔っ払えないから、そのうちハードリカーに切り替えて、奴の酔いっぷりに合わせるようにしてみた。 しかしそれも段々量が増えてしまって、幾ら飲んでも酔わなくなってしまった。 それで思い余って徳用の大瓶でウォッカやジンなどを買って来ては、それをくぴくぴとやるのだけれど、奴の愚痴は日々その度合いを増して行き、毒舌や暴言もまたエスカレートしていったから、それに対抗して喧嘩にならないように自分を抑えながら、言いたい事を冗談に乗せてやり過ごしたりするには、やはりこちらもまた更に飲まねばならなくなってしまった。 あの家に居る頃のワタシは一体何本くらい酒を開けたのだろうかと、ふと思う。案外短期間しか居なかったのに、毎週の如く大瓶を空けていた事を思い出して、ぞっとする。あの頃の酒代は、勘定していないけれど、相当のものだったろうと思う。 精神衛生上良くない環境に居ると、身体にも良い事はない。 兎も角、その晩も同様に、いつもの愚痴が始まった。やれやれ、また始まったか。ワタシは適当な頃合を見て自室に退散しようと、その機を伺っていた。 奴は何時になく大声で喋り始めた。珍しく奥さんが座って聞いてくれているから、調子に乗っているのだろうか。 今時の男どもは弱くなったなんて言われているが、それは違うね。それは女が社会進出なんかし出したから、女が強くなったの。だから比べたら男が弱くなったように見えるかも知れないけど、そうじゃなくて、女が強くなっただけなのよ。 あら、そうですか。なるほどね。 そうだよ。だから、女がね、強くなっただけなんだよ。男が弱いんじゃないんだよ。男は別にどこも、ちっとも変わっちゃ居ないんだよ。 へえ、それは結構ですね。 すると、奴は突然怒鳴り始めた。 結構じゃないよ!全然結構じゃないよ!これからの時代はね、女はそんな社会進出だのキャリアだのってほざいてないで、家庭に戻ってだね、昔のように三つ指突いてお帰りなさいって、ダンナの為に家庭を守っていればいいんだよ! ワタシは唖然とした。ワタシや奥さんという身近な女を目の前にして、言ってる事の意味が分かっているのだろうか。 ワタシは奥さんの顔を見た。初めは笑って聞いていたのだが、その頃にはもう真顔で、どこか一点に目を据えている。口をきっと結んで、黙っている。 それでも奴の説教は留まらない。やれ女が仕事やキャリアだのと言って身の程も知らずに外をふらふらとしているのは怪しからんだの、そうやって居る間に犠牲になっているダンナや子供の事をよく考えてみろだの、唾を飛ばしながらべらべらと捲くし立てる。 奴が喋り続けるのを聞きながら、奥さんはじっと固まって、無言で宙を見詰めている。奴の方を見ようともしない。段々険悪なムードになってきた。 一応平和主義を貫いているワタシとしては、まあ、どうやら随分酔っ払っちゃったみたいですねえ、今日はもうその辺でお酒は止したら、と促してみたのだが、 酔ってなんかいないよ! とまた怒鳴るので、 ああ、そうですか。(それならこちらも、貴方は本気で喧嘩売ってるって事で了解しますよ?) と言って、ワタシは続けた。 でもなんだか随分時代錯誤な、男尊女卑的な発言ですねえ。ちなみにワタシにしろ奥様にしろ、貴方の言う、外でキャリアを目指している女性たちなんですけど(そういうこと言ってると、ワタシたちからもっと嫌われちゃうけど、いいの?)。 奴はワタシを頭から否定した。 時代錯誤じゃないよ!男尊女卑じゃないよ!これは事実なんだよ!そもそも女が強くなったから、この世の中は可笑しくなってきたんだ!この世の中の問題は、元を糺せば全てそこに辿り着くんだよ!女は家庭に戻れ! そうして奴は、似たような主旨の事を幾度も繰り返した。こちらが何を反論したところで、奴の頭の中はもうすっかりそれ一色だから、話は一向に噛み合わなかった。 ワタシはこの堂々巡りの議論に穏やかに対応し続けるのに疲れたのと、この酔いに任せた無礼な振る舞いに対する不愉快さの余り、もう反論をするのを止す事にした。大体奥さんだって黙っているのだからと、ワタシも暫く黙って聞いていたのだけれど、奴の基本的な論点には変化も無く、奥さんの表情にもまた変化は無く、ワタシも引き続き黙っていた。 それから、彼らが使いたいと言うので共用にする為にリビングに置いておいたワタシの爪切りを取って来ると、話は半分に、テレビの方を向いて爪を切り始めた。それが終わると、誰も見ていないテレビの方に身体を向けたまま、話は聞き流していた。奴の話は、結局誰に対して向けている訳でもなく、また誰の意見を取り入れる訳でもなく、ただの独り言でしか無かった。 そして同じ話ばかりを聞きながら番組がもうひとつ終わったのを機に、じゃワタシはそろそろ失礼させて頂きます、お休みなさいと言って、退散した。 それからワタシたちは、いつもの通り会えば挨拶を交わし世間話をして、一見何事も無かったかのように見えた。 あの晩から数週間が過ぎた。 つづく。
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