せらび
c'est la vie
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みぃ


2005年01月20日(木) 生活・人生全般を簡素化する心がけ、またはシンプルライフ、その五

先日来の雪が少し解けてきたけれど、今日はどうやら一日氷点下のままで上下するらしい。もう一週間くらいすると漸く氷点上に上がるらしい、という事を週間予報で見る。ワタシときたら、殆ど引き篭もり生活中。


そういうワケで昨日、思い余って台所用品を間引く事にしたら、寄付へ出す袋を新たに追加する次第と相成る。我ながら情けない事である。

しかしこうして台所が片付いたところで、もう怖い物は無い。当座入用な物以外に、今のところ死蔵品と呼べるような物は、ワタシの住まいにはもう一切無いのである。無いに違いない。

そもそもワタシの家には、家具と呼ぶべき物が少ない。

例えば寝室には、寝具とコーヒーテーブル、それに小さなテレビとビデオがくっ付いた物(テレビデオ)くらいしか無い。

この寝具は「フトンベッド」とこの辺りでは呼ばれていて、すのこ状の木枠の上にマットレスが乗っかった物である。これは折りたたんでソファとしても使えるようになっている。バラして運べるので、引越屋には喜ばれる。

通常はこれがワタシの夜の御供であり、身体にすっかりと馴染んでまるで腐れ縁のオトコのように肌に心地良いのだけれど、しかし馴染みすぎてくたくたのマットレスが少々腰に悪い。時々ひっくり返したり向きを変えたりして、ローテイションというのをやるのだけれど、それもそろそろ限界かという気がする。

本来ベッドマットレスというものは、定期的に買い換えないと身体に悪い代物である。これは安い買い物ではないので少々難儀だけれど、腰は大事にしないと諸々都合が悪いから、背に腹は変えられない。

だから次に引越しをする際には、是非とも新しいマットレスに買い換えようという所存である。これが嫁入りなら、大手を振って新品を購入出来るであろうと期待している。もしそう都合良く事が運ばなかった暁には、薄くて軽いやつで、まるで日本の敷布団のように上げ下ろしが楽に出来るようだと、次からの引越しが楽で良いと思う。

ところで、このベッドの隣には、段ボール箱をひっくり返してサイドテーブルにしたものを置いている。単に丁度良い高さのサイドテーブルが見つからなかったからというだけの代価策であるが、意外にこれで気に入ってしまったと見えて、未だにましなのを見つけられないでいるのだから、恐らく嫁に行くまでこれで通してしまうのだろう。

その代わり、コーヒーテーブルは値段の割りにしっかりとした作りの、掘り出し物である。これはとある有名家具店の前を偶々通りかかったら、まさにセール中だったのを見つけてすぐさま購入した、折り畳み式の物である。

このコーヒーテーブルに、これまた頑丈な折り畳み椅子を載せると、丁度天井の電球交換に都合の良い高さになり、一石二鳥である。本来そういう使い方をするものでは無いのかも知れないが、しかしワタシはこういう一つで二度美味しい、といった類の物が大変好きなので、テーブルには可哀想だが大いに活用させて貰っている。

第一、一つで一つの役目しか負えない物では詰まらないし、多機能な物なら、数少ない持ち物で多くの用事が足りるのだから、全体としての持ち物の数は少なくて済む。元来がこういう性質だから、物に縛られないように常々心掛けておかねばならない。ワタシという人間は、そう人様の物欲を笑ってはいられないのである。

しかし、ワタシの持っている家具というのは、その殆ど全てが折り畳みが出来たり、分解して持ち運べたりするのだから、その辺りが幾多の引越しを潜り抜けて来たワタシならではの、一つの心がけであると言っても良いだろう。

ちなみにダンボール箱も多目的に使えるので、好きな物のひとつである。

要らない箱は、こう引越しが多いと、つい捨てずに取って置くような習慣になる。大概は潰して重ねて、サイズを揃えて、クローゼットの奥や棚の後ろ等に隠して立てかけて置いたりする。

そして次に引越しをする時には、そのまま前回入れた物を同じ箱に入れるのである。だから引越し屋に電話で依頼する時も、何が何箱あるかというような算段は、すらすらと出てくるので、都合が良い。

しかし他にも、例えば本棚が一杯で本が入りきらなくなった折には、ダンボールのビール箱、これは日本的に言うところの蜜柑箱サイズといったところだが、それを二箱重ねて補強して立てると、丁度良い簡易本棚が出来上がる。また、作り付けの棚が備えてあったアパートに住んだ時には、一段にビール箱が丁度二つずつ入るサイズだったから、そこへ衣類を入れて引き出し代わりに使ったりも出来た。

その際、下着だとか一寸隠しておきたい物を入れるのに、小さめの細長い箱が丁度三つ、大きめの縦長の箱にまるで誂えたように収まったので、それに紐で取っ手を付けて小引き出しとして利用した。これは偶然本棚の下の隙間に丁度良いサイズでもあったので、別のアパートで収納スペースに限りがあった時には、この箱を本棚の下へ持ってきて、道具類を仕舞ったりするのに重宝した。

折り畳み・分解が可能という事と、使い回す技と、それから臨機応変というのは、非常に肝心である。これは狭い日本家屋での遣り繰りに慣れた、ニホンジンならではの性質だろうかと、ふと思う。

しかし余所の国でも、老人の居る家を訪ねたりすると、特に経済的に不自由していなくとも、意外と簡素な調度品で質素な暮らし振りをしている人も居る事に気付く。

尤も、ワタシの住む国では合理性を良しとしていて、また何でも大きいのを沢山持つのを良しとする傾向があるので、現代社会ではその限りでないのが残念である。しかし物の無い時代を遣り繰りしてきた老人らの暮らし振りは、何とも慎ましいものがある。


ワタシは日本の古いもの、例えば和室にちゃぶ台を置いて夜にはそれを片付けては布団を引っ張り出してきて寝る、といったような様式や、手拭やら風呂敷やら柳行李やらの機能的エコ的な道具類等が、元来好きである。しかしこれは決して独身女に有りがちな和趣味とか、外国暮らしのホームシックとかいうようなものではなくて、寧ろ古くから伝わる良いものが好きという事ではないかと思っている。

だから、例えばフッ素加工の施されたくっ付かないフライパンなどではなく、鉄の重たいフライパンやキャセロールの方を好むし、それを使い込んだ木のスプーンやヘラで掻き回すのが好きである。近代的な設備を備えたキッチンよりは、田舎に行くと良く見かける、ストーブの上にやかんや鍋を乗っけながらパンやケーキも焼けて、また部屋も温められるというような、古めかしいながらも機能的な薪ストーブが家にあったら良いのにと思う(ワタシの街では、防災上の理由で煙突が埋められているところが多い)。これが日本なら、七輪や火鉢を置いて、餅やするめを焼くという風になるのだろう。

とは言え、こうして古い物の良さを改めて尊ぶ事が出来るのも、目先の新しさに飛びついて彼是と無駄遣いをした苦い経験があってのものだろうと思う。人は恐らく、そういう若気の至りというような経験があってこそ、物の本質が漸く見極められるようになるのだろうから、ワタシは自分の致した狼藉の数々については、まあ多めに見てやろうと思う。少なくとも、自力で運べない物はこの家の中に置いていないのだから、女の一人暮らしでのせめてもの自律という事を考えれば、良しとすべきであろう。そうしよう。

つづく。


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