せらび c'est la vie |目次|昨日|翌日|
みぃ
うちの近所ではここ数日酷い寒さが続いていて、昨日の気温はマイナス20度に届いたそうである。風の影響を含めた体感気温では、マイナス30度を超えたとの事である。歯医者の予約も何故か潰れたし、当分食料の在庫にも余裕があるしで、またしても出掛けずにうちで作業中。非常に乾燥していて、お湯を沸かしたり、気休めに家中スプレーで水を撒いてみたりするが、日頃は何とも無いのになんとフケが出るようになってしまって、えらい事である。 ところで今日はキッチン以外のワタシの持ち物について書く予定だったのだが、その前に、この話題では自己反省も込めて自分の生活振りを見直しているのだから、ここは自分に厳しく、はっきりとバラしてしまおうではないか。 という事で、キッチンの様子をもう少しよく眺めてみる。 確かに、先日も言ったように、ワタシのキッチンのカウンター上には物が無いから、ワタシの持ち物は人並みかそれ以下であろうという自負があったりする。しかし仕舞ってある鍋釜や道具類の中には、実は最低限必要な物以外にも、そういえば買って以来数える程しか使っていないというような物も幾つか含まれる事を、ワタシは知っている。 そう、それは賊に「死蔵品」という。 以前同居人がいた頃には、全ての道具類を自分で揃えずとも、同居人の持ち物をそのまま使わせて貰ったりしたので、その点ではワタシ個人の持ち物は少なくて済んだ。だから当分の間は、その時その時で同居人が持っていないけれどもワタシが必要な物、というのを中心に揃えていれば良かったのである。 そのうち一人暮らしをするようになってから、徐々に入用な物を買い足して来たのだが、その中には実際買ったは良いが使い勝手が悪かったり、掃除がし難かったり、見てくれや材質等が気に入ったのに上手く使いこなせなかったりして、殆ど仕舞い込んだままになっている物が、幾つかある。 今思いつく限りで挙げれば、例えば「パスタ鍋」というのがある。これは網目の付いた内鍋を外鍋に入れて使うようになっていて、麺を茹でたらその内鍋を引き上げれば、湯が簡単に切れるという事で、便利な代物である。容量は八クウォートというから、四五人前のスパゲティ等を茹でるのには充分である。 実は日本で暫く一人暮らしをしていた頃にも、これを持っていた。その頃からワタシの食生活の中で麺類の占める割合は多かったから、これを重宝していた。だから、こちらでいよいよ一人暮らしとなった折には、恐らく習慣からこれを選んだのだろうと思う。 しかし実際は、日々生活に追われ、とはいえ麺は始終食べては居るのだけれども、何しろ鍋が二つ重なっているとなると、当然湯が沸くのに時間が掛かり、忙しい時には尚更苛々するのである。それに大人数の食事を作る機会も少ない一人身のワタシとしては、もっと小さいサイズの片手鍋で充分用が足りるのである。 だから気が付けば、揃いで購入した野外仕様の片手鍋ニ個セットで殆どの仕度を済ませている。例え客がニ三人来ても、これに鉄のフライパンを駆使して、どうにか都合を付けている。 他に要らぬ物といえば、木製のお玉がある。 それまでプラスチック製品、というより更に忌まわしいフッ素加工の物で済ませていたのだが、熱で一寸端っこを溶かしてしまったという事情もあり、それを機に身体と環境に優しそうな木製の洒落たやつを購入したのである。 これは中々格好の良い代物で、白木の清楚な感じがまた宜しく、例のパスタ用の大鍋の淵にちょいと引っ掛けて使うに丁度良い鉤も付いている。 しかしそもそもワタシの普段の食事で「スープレードル」を必要とするような物が出てくる事は、実際年にそう何度も無いという事に気付く。 一度大鍋でカレーを煮た時に使ったら、白木がみるみるうちに黄色く変色して、がっかりさせられた。 考えてみたら、大概は大きめのスプーンで調理をして、それをじゃっとボウルに空けて、さあ喰うぞというような勢いでもって食事をしているのである。パスタだって、フォーク一本でソースから麺から調理しているのだから、実際ワタシという人間にお玉だのトングだのといった豪勢な調理器具は果たして入用なのだろうか、という疑問も湧いてくる。誠に味気無い、独身所帯である。 その癖、実はもう一つ全然洒落ていないお玉も持っていて、実際それの方が諸々の料理に対応していて、使い勝手が良いのである。ワタシもきっと洒落た物が欲しいお年頃だったのでしょう、と暫し反省。 そういえば、何年も使い込んだまな板の他に、プラスチックのぺらぺらのまな板も持っている。これは切った後くるっと丸めてさっと注ぎ入れる事が出来て、それなりに便利ではある。しかしそれを置く台が平らでないと切り難いときていて、しかも場所を喰うので、狭いところでは使い難い。結局数回使って、以来仕舞い込んでいるのである。 あとは、人から譲り受けた大皿が幾つか、殆ど出番も無く鎮座している。これはいつかは使うかも知れないからと一応取っておいているけれど、しかし「いつか」というのは意外と訪れないものである。それに、自分の好みでない物を日常的に使うという機会も、余程の事情が無い限り起こり得ない。 … …ここで暫し中断して、不用品を寄付へ出す袋詰め作業をする事にする。 つづきはまた。
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