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みぃ
以前にも書いたように、ワタシはこの自らの醜い歯並びを今こそ正さんとして、矯正歯科医に掛かっている。 其処はある大学の歯学部付属の総合クリニックなので、ゆくゆくはプロの歯科医または矯正歯科医にならんとする学生の技術訓練がその主たる目的である。勿論彼らはまだ資格が無いか若しくはあってもその後数年間義務付けられている実地見習い期間中であるので、彼らの一存で治療をするという事は許されず、専ら有資格者である大学教授らの監督の下に治療を行う手筈になっている。 矯正歯科に掛かる前にクリーニングや虫歯治療などを担当してくれた一般歯科の「学生ドクター」という人は、非常に腕が立つ上態度も良好な好人物であった。だから、矯正部門へ移ってからのそのギャップに驚きながらも、まあ気の所為かも知れないし、まだ初めだから向こうも緊張しているかも知れないし、もう少し様子を見ようではないか、などと自分に言い聞かせながらこれまで数回やり過ごしてきた。 ところが、これはワタシの気の所為などでは無く、やはり重大な問題が立ちはだかっているのではないかと思うようになり、先日予約の折にその件について話をしたらば、思いの外大事に捉えられてしまったようで一寸驚いた、という話をしようと思う。 この矯正の方の「学生ドクター」という人は、見るからに自信の無さそうな、いつもそわそわした感じの男性である。経験の無い学生がそわそわする事自体はワタシは余り気にならないのだが、こいつの場合はその自信の無さを承知しているのかいないのか、自信が無いくせに言葉遣いが生意気というか何を考えているのか良く分からないというか無骨というか無神経というか態度が悪いというか、何しろ一癖も二癖もあるのである。 わざわざ取り上げて言うと人種差別と思われるかも知れないが、しかし彼自身自己主張しているから参考までに一応述べておくけれども、彼はユダヤ系である。この国にはユダヤ系住民は沢山いるけれど、中でもいつも頭の上に小さな帽子状の布 これまで数回接して来た中で気になった点を一つひとつ挙げては切が無いが、思えばどれもその自分に対する、または自分の専門家としての知識や技術に対する自信の無さ故というのが痛々しくも良く分かる。 例えば、第一回目の予約の折の出来事だが、彼の苗字は一寸変わっていて、外国人のワタシには聞き慣れないものだったので、自己紹介の際聞き直した。すると忽ち彼は一寸不機嫌そうな顔つきになって、この名前は君には発音出来ないのかと鬱陶しそうに聞いてきた。いや、まだ「出来ない」とは言っていない。ただ、相すいませんがもう一度仰って頂けますかと聞いただけである。まあ落ち着け。 ワタシは、ああこいつは随分情緒不安定な奴らしいと察知したので、質問を変える事にした。お手数ですが、一寸其処へお名前を綴って頂けますか?一度聞いても分かり難い名前は、書いて貰うと読み易いし覚え易いものである。それでワタシはその書いたのを読み上げて、これで発音は正しいですかと確認した。厄介な奴に当たってしまったものだ。 彼は物を言う時に「尻すぼみ」になる傾向がある。音楽でいうところの、「フェイドアウト」という状態である。だから、ワタシは度々、えっ?一寸聞こえませんでしたのでもう一度仰って頂けますか?と一々聞き返さなければならないので、面倒である。しかも聞き返すと、彼はまた不機嫌そうな顔をするので、まあそれはさもあらんとは思うけれども、しかしそれはお前がはっきり喋らないからいけないのだよ、嫌な顔をするのはお門違い、とワタシはその度気分を害するのである。 尻すぼみ程度ならまだ何とかなるのだが、彼の言い回しには独特の妙な「ひねり」が加えられている。ひょっとすると、自分が頭が良いという事を暗にほのめかしたいのかも知れないと勘繰ってみたりするのだが、例えば先日などは何の前触れも無く、ところで貴方の本日の時間的制約状況はいかがですか?と聞いてきた。 ワタシは、はて、ワタシの今日のスケジュールを一通り報告しなければならないのかしら?確かに急ぎの仕事が迫っていて、というか既に相当遅れていて、この後大急ぎで取り掛からなければならないのだけれど、しかしそれは彼には無関係の問題では?ならば、一体どの辺りまでワタシは暴露すればよいのかしら? などと戸惑い、ご質問の意味を計りかねますが?と結局お茶を濁した。すると彼はじれったそうに、今日やろうとしている作業は少々時間が掛かるので、この後急ぎの用事が入っていて直に行かねばならないとかいう様な事があると困るので、一応聞いてみただけだ、などと言う。 ワタシは脱力した。じゃあ、最初からそう言えよ。お急ぎですか?の一言で充分だろう。不必要に人生を難しくするのは、お互いの為にならんと思うがの。 そしてワタシがこうして聞き返したり言っている事が理解出来ないなどと言えばまた、彼は例の不機嫌そうな顔をするのである。まるでワタシのおつむが悪いから、手が掛かって仕様が無いとでも言いたげである。 そういう次第で、我々の間には紛れも無いコミュニケーション問題または性格の不一致問題が立ちはだかっているのだが、問題はそれだけでは無く、彼の歯科医としての資質にまで及んでいる。 以前の日記にも怒りに任せて書いたけれども、歯列矯正の初めの一歩である、ミニ・輪ゴム状の物を奥歯の歯と歯の間に挟むという作業をしている時の事である。彼はワタシの歯が窮屈に込み合っていて、しかも生まれてこの方異物を歯に挟んだ経験が皆無であるという事情を聞き及んでおりながら、乱暴にそのブツを突っ込もうとして、仕舞いにワタシの歯茎から大量の血を溢れさせた。あんまり流血が酷かったので、ワタシの顔から彼のマスクや白衣(厳密には青衣)に飛び散って、何やら大儀な光景になったのである。 そこへ彼は一言、君はひょっとすると歯槽膿漏に掛かっているかも知れない、と発言した。 ワタシは既に一般歯科の方で、クリーニングその他の作業を通して数人の歯科医の皆さんから、貴方の歯茎は非常に奇麗で健康的である、全く問題は無い、等と言われ尽くして来たから、彼の発言は全く根拠の無い出鱈目である事を直に察知した。それで日記を書いた当時もすっかり激怒して、この様な患者を無闇に混乱させるような発言をする輩はプロとは呼べない、と苛々していたのである。 これには後日談があって、翌週の予約に行くと彼は、先ず初めに貴方の歯茎の様子を調べたい、と申し出た。どうぞお好きなように。彼は器具を使って歯茎の彼方此方を突っついていたが、暫くしてこう言った。 貴方にグッドニュースがあります。貴方の歯茎は問題ありません。 …ええ、そうだと思っていましたけど? ワタシは溜息を付いた。 ワタシはこの若い訓練中の学生の「判断ミス」を咎め立てているのでは無い。歯学校付属のクリニックに来るくらいだから、そういう事もあろうとワタシも一応理解はしているのである。それよりも、ワタシは彼のふざけた言いっぷりに憤っているのである。自分の判断ミスをそうと認めたくない無責任さというか、医師として、プロフェッショナルとしてのモラルに欠けるというか、そういう事を問うているのである。 健康なワタシの歯茎から何故出血したのか。それは彼が無理をしたからである。単純明快。輪ゴムでフロスをしたら、誰だって血が出るだろう。そんな事をワタシの奥歯に強いておいて、予想外に出血したのは恰も君の歯茎が不健康だからいけないのだとでも言うような事を言って患者を脅しておいて、後から君の歯茎は問題ありませんでしたと笑って言われても、それで有らぬ疑いを掛けられたワタシの歯茎にはどう示し合わせれば良いと言うのだろうか。これまで真っ当に生きてきたワタシの歯茎に、ワタシは何と言って聞かせれば良いのだろうか。 この一件でワタシはこの若者のプロの歯科医・矯正歯科医としての能力とモラルにすっかり不信感を抱いてしまったので、この先長くて二年間もこいつとやって行かなければならないのかと思うとほとほと先が思いやられた。それならばいっその事「インヴィザライン」という方法にすれば、コンピューターで予めワタシの歯に合わせて作られた透明の枠を定期的に取り替える作業の為だけに来院すれば良い事になり、この藪医者の腕や知識に頼らないでも済むし、実質奴と接する時間も少なくて済むのだから、何とかしてプランの変更をして貰うか、さもなければ担当医を変えてもらう以外にワタシの歯を救う手立ては無かろう、という結論に達していた。 それで年末に来院した際その事を切り出してみたところ、奴は事もあろうにそれは出来ないなどと抜かしやがったので、ワタシは眉を吊り上げた。でも初めにプランを決める際、通常のブレイスでもインヴィザラインでもどちらでも有効だが、ただインヴィザラインの方が少々時間と費用が余計に掛かるだけである、と仰ったじゃないですかと言ったのだが、いやでもそれは出来ないと思う、の一点張りであった。 いや、アンタの意見を聞いているのでは無いのだから、プロであるアンタの親分の意見をさっさと聞いて来いよという心境である。 しかし偶々その日は親分がご出勤されていなかったようで、改めて出直して貰わねばならぬと言う。それで年内最後の予定で後日予約を取ったのだけれど、例の奥歯に輪ゴムを突っ込む作業中に取れてしまった銀歯を治すのに一般歯科の予約を取りに行ったところ、矯正の予約日の数日後になってしまったので、それでは作業が進まないからわざわざ無駄足は踏むまいと、ワタシは結局その予約を取り消す事にした。 それで代わりに電話で奴と話をしたのだが、何度聞いてもまだ同じ説明を繰り返す。親分には聞いてみたのかと言っても、いや聞いてないが駄目なのは駄目だと思う、などと言うのである。 これでワタシの心は決まった。言ってる事がコロコロ変わるような奴は信用ならぬ。それにこいつの態度も気に入らぬ。 一般歯科の予約の後、ワタシは同じビルの上階にある矯正部門へ出掛けて行った。窓口に座っている秘書に、担当の矯正歯科医を変更したいのですが、どういう手続きを取れば良いのでしょうと聞いた。 そ、それはどうしてと聞くので簡潔に説明したところ、秘書氏は奥へすっ飛んで行って、何やらボスに相談していた。それから戻って来ると、「ドクターG」と話をするようにと言った。その人はその学生ドクターの監督官であり、インヴィザラインを使うケースを統括している技術者でもあった。 ワタシは年が明けた初めの予約日に少し早く来て、このドクターと話をする事に決めた。 そしてその予約日。 窓口で例の秘書氏にドクターGと担当医変更の件で話がしたいのですがと言うと、ああ覚えていますよ、それでは一寸こちらへ、と列から外された。ドクターは今しがた席を外されましたが、直戻ると思いますので、少々お待ちを、との事であった。 暫く待っていると、二人連れのドクターたちが話しながら入って来た。秘書氏は、ドクターKと言う人を呼び止め、こちらは学生ドクター某に付いている患者さんですが、一寸問題があるそうでドクターGをお待ちになっているのです、とワタシを紹介した。 何故ドクターGではない人を引き止めたのだろうと不思議に思いながらも一通り挨拶を交わしていると、ドクターKは秘書氏にええと、どの学生だって?と聞き返し、あああいつね、分かった分かった、そうですか、それではお話を聞きましょうか、と振り返った。 ワタシが大雑把に説明すると、ドクターKは直に合点が行った様子で、自分はこの学生と直接の関係はないのだが、いつも彼の言い回しには独特の癖があるし妙な奴だと感じているとか、でも慣れて来た周囲の学生たちには、一風変わったユーモアのセンスがあるという様な好意的な評価を受けているようだとか、まあ一年目の学生だから仕様が無いのかも知れないが、随分落ち着かないでそわそわしている風だし、確かに君の言う様にコミュニケーション上の問題があるようだとかいったような、個人の立場からの見解をすらすらと述べてくれた。 その上で、しかし此処は教育機関でもあるので、一人の患者と長い期間関わっていく事で色々な段階に接する機会を与える場であり、その間起こりうる様々な問題を処理する能力も身に付けて貰わねばならないから、出来れば上手く乗り越えて行って貰いたいのである、という、監督官・教授としての立場からも意見を述べてくれた。 そうですか、つまり貴方は担当を替えないで貰いたいという事を仰っている訳ですね、と聞くと、いやまあ君はお金を払っている患者であるから、担当医が気に入らなければそれを替える権利は勿論あるのだろうけれども、と言葉を濁した。 これはワタシが想像していた以上に、担当の学生ドクターを変更するのは面倒らしい、という事が次第に分かってきた。 丁度其処へ、何も知らずに例の学生ドクター君が通り掛った。インヴィザラインの事について話をしていたのだとドクターKが言い、学生ドクター君はええその件に付いてはちゃんと説明したのですが、とまた同じ言い分を繰り返した。 予約の時間を少し過ぎてしまったので、一先ず作業に取り掛かろうという事になった。ワタシはドクターKにお礼を言って立ち去ろうとすると、彼は後でドクターGとも話をしておくのでご安心をと言って去って行った。中々良い人物である。 席に着いて、学生ドクター君が調子はいかがと挨拶をするので、少々決まり悪く思いつつも、いや実は担当の矯正医を替えたいという旨を話し合っていたのですと伝えた。当たり前だが、彼は忽ち穏やかで無くなり、しかし平静を装って、ふむそうか、もし替えるなら他の一年目の学生にするが良いと思う、などと痛々しいアドヴァイスまでくれたりした。 ああこういう時どう言えば相手を傷つけないで済むのだろう、でもどう言っても傷つけない言い方なんて有りはしないのでは無いかしら、などと思案しながら、もし良かったら先程ワタシが話していたドクターKとお話し合いをされてはいかがですか、と勧めてみた。すると、いやそれには及ばない、何故なら彼はこのケースに関わっていないのだから、事情を理解していないに違いないのだ、と言う。 だから、今ワタシが話して来たのだから、部外者の彼も今では事情を知っているのだよ、分からん奴だな。 そのうち彼は監督官に相談に行ってくると言って席を立った。暫くしてドクターGと一緒に現れ、ちんまりと脇へ腰掛けた。 このドクターGは非常に立派な先生であった。というのも、彼は立場上自分の生徒を庇わねばならなかったから、敵であるワタシには少々強面な(お前が聞き分けの無い事を言っているんじゃないのか?とでもいうような)言いっぷりで登場したけれども、まあ実際彼の対応は理に適っていたし、こういう先生がワタシの辛い学生生活中にもいてくれたらどれ程幸せだった事だろう、などと羨ましく思ったりもしたくらいである。 しかしドクターGは事実関係を把握していなかったので、彼の言い分は一般的で多少的外れでもあった。ワタシは性格の不一致という問題もあろうけれども、それより彼の矯正医としての資質に大いに疑問を抱いているので、ワタシは(彼の資質に頼らない)インヴィザラインにプランを変更するか、または他の人に替えて貰う以外に解決策は思い当たらないと伝えると、そこからは話が早かった。 ドクターはワタシの歯を眺めて、これならインヴィザラインでもやれない事は無い、ただ美的な問題(完璧に真っ直ぐにはならない可能性)が少々あるというだけで、出来ないケースでは無いと言う。それに学生の技術や知識に頼りきって進めていく作業では無く、まともなドクターの(つまり彼の)指導の下にやって行くのだから心配には及ばない、と強調する。だから兎に角このまま何とか上手くやっていく方向で考えてくれないかと言うので、まあ先生様にそこまで仰られてはワタシも嫌とは言い難いですしという事で、この学生と今後もやっていく事で了承した。 しかし帰宅してからよくよく考えて見るにつれ、今後二年間も拷問を受けなければならないとは随分心沈む話である、と改めて落胆した。ワタシは心理カウンセラーではないから、自分の歯医者の人格上の問題に付き合って理解を示してやらねばならないという云われは無い。これが教育現場でなく普通の開業医だったら、即刻他所へ乗り換えているところである。 しかし逆の立場を考えると、今回の一件で彼はある意味教授陣から一目置かれるところとなった訳であり、あいつは患者から問題があるから替えてくれとまで言われた奴と言うことで、周囲の学生からもそんな目で見られるのだろうし、それはそれで気の毒な事ではある。 只でさえ、何を思い悩んでの事だか知らないが、いつもそわそわと落ち着かないというのに、これで更にプレッシャーを感じてそわそわするのは間違いないだろうから、ワタシとしても何やら罪悪感を感じないでもない。これでは却ってワタシ自身も居心地が悪い。不本意ながら、恰もワタシが苛めたような格好になってはいまいか。若いオトコノコを苛めて何が楽しいのだ、と陰から叱る声が聞こえて来そうである。 どうにも合点が行かないが、何しろワタシ個人としては、赤の他人である彼の精神衛生状態には関わり合いたく無いのである。頼むから、公共の場ではそういう個人的な問題を垂れ流さないで貰いたいのである。ビジネスはビジネスとして、きっちりと分けてやって貰いたいという事である。こんな事は、わざわざ言うまでも無い事ではあるが。
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