せらび c'est la vie |目次|昨日|翌日|
みぃ
訴訟其の一、第十一話、そして最終話。 ところで地下に住む留守番音楽家とは、以来行き来をする友人になった。ワタシは気休めに彼の演奏会に出掛けてみたり、休日には一緒に昼飯を喰ったりして、割合時間を一緒に過ごした。 ある時彼の演奏会に行った帰り、彼は別の友人の留守宅で猫の世話があるので、今日はそちらに泊まると言う。そして、もしよかったら一緒に来るといい、そちらには電気があるからテレビも観れるし冷房も効いているよ、と言う。折りしも自宅へ帰る方向の電車が工事で不通になってしまったので、まあそれでは折角だからと言って、川向こうの街へ泊まりに行く事にした。 その翌日が、例の大きな事故があった日である。それからニ三日は交通機関が遮断されたりして自宅に帰って来られなかったが、尤も帰っても電気が無い家だから、却って情報は入って来なかったろうし、それを考えるとこれも何かの巡り合わせと言うか、神様だか仏様だかはたまた死んだばあさんだかが、大変な事が起こるからこの晩のうちに他所へ行っておくのがいいだろう、と計らいをしたのに違いないと思っている。 そうして自宅にやっとこさ帰って来たのだけれど、近所の闘争の「同士ら」が電気が無いワタシの事を心配して電話をくれていたり、また知らせる為にわざわざうちへ足を運んでくれていたと知り、それぞれの友情に深く感謝をした。 それから階下の友人が電気を「貸してくれる」と申し出てくれたので、ワタシは延長コードを繋ぎに繋いで、それを窓から階下へたらりと落とした。それを下で彼女が壁に繋いでくれたので、ワタシはテレビを付けて事態をじっくりと知る事が出来たから、近所のケーブルチャンネルを持たない友人らを家へ招いて、皆してニュースに見入ったりした。どうやらケーブル以外のローカルニュースチャンネルは、一社を除いて全て遣られてしまっていたらしく、電気があってもケーブルが無いとまともなニュースが入って来なかったのだ。 またお陰でコンピューターを繋いで、メールで彼方此方の人々に無事を伝えたりする事が出来た。これも帰宅してみたら、えらい数の電話やメールのメッセージが溜まっていて、非常事態に際して人々がワタシの身を案じてくれていた事を更に有難く思ったものだ。 相変わらず風呂は薄暗いロウソクの光でやるから、掃除などは行き届かないけれど、この電気を借りる事が出来たお陰で、ワタシの生活は随分過ごし易くなった。 それでも、やはりこれは限界かと思う事が多くなった。 ワタシと階下の友人は、訴訟続きの生活にすっかり疲れ果てていた。その頃には、殆どの住民がこの訴訟から手を引いていて、結局残ったのは二人きりだったのだ。 それにどんなに諦めずに裁判所へ通い詰めようとも、憎き大家には殆どダメージを与えられないでいた。 何しろ彼には、金が唸るほどあったから、裁判所が幾ら罰金を課そうとも、他に幾つもビルを所有して家賃収入を上げている実業家の彼にしてみれば、まさに屁にも満たない金額である。そして金の無いワタシたちは、例えば有能な弁護士を雇ってさっさと解決をつけて貰うというような事も出来ず、奴に痛い思いをさせる事も出来ず、ただ時間とエネルギィを費やして本業が疎かになっていくばかりであった。 そこでワタシたちは、最早これまでと思い始め、最後の手段として家賃を踏み倒して「夜逃げ」を決行する積りで、着々と準備を重ねていた。 ワタシはそんな話を、例の留守番音楽家氏にしたところ、彼の友人で同居人を探しているのがあるから、そいつを紹介しよう言う。後にそいつも訴える羽目になるのだけれど、この時はそんな事は知らずに、是非にと言ってそこへ越す事に決めてしまった。 本当は例の大きな事故が起こる前に逃げようと予定していたのだけれど、お陰で街中大混乱で、手配した引越屋の事務所も潰れてしまったから、予定を延ばして秋の深まった頃、夜逃げならぬ「朝逃げ」を決行した。 どうも見ていると、夜中は夜逃げ防止の為か、管理人が廊下を意味も無く長時間掃き掃除している事が多かったからだ。だからワタシも階下の友人も、早朝に引越屋を呼び付け、行き先など他言は無用と厳しく言い置いて、素早く逃げて行った。 こうして、「夜逃げ」によって、ワタシたちの闘争は事実上終結した。 訴訟其の一、あとがきへ。
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