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みぃ
訴訟其の一、第十話。 それはある日の昼頃、何の前触れも無くアパート中の電気が切れてしまったのだ。 初めはブレーカーが落ちたのかと思って、箱を開けて様子を見てみるのだが、どれを上げたり下げたりしても変化が無い。ワタシは異変に気付いて、段々焦り始めた。 それは、ワタシにとっては紛れも無く突然の出来事だったが、しかし実は以前からなんとなく嫌な気配がしていた。 と言うのも、実はこういう事を言うと大分人聞きが悪いけれど、そのアパートへ越してきて以来、ワタシは「電気代」というものをそもそも払った例が無かったからだ。 賢明な読者の皆さんは、それはワタシが怠慢だとかケチだ等と早合点してはいけない。何故なら、それは電気屋が請求書にその月の使用量をいつも「ゼロ」と書いて遣すからいけないのである。 この街では電気とガスは一つの会社が一括して取り扱っている地域が多いのだが、そのアパートの近所もそういうシステムであった。引っ越して来て何日も経たぬうちに、その電気・ガス会社から通知が来た。 この部屋の所有者の方へ、室内で電気とガスが使われている事を、こちらでは承知しています。もし貴方がこの部屋の電気とガスを使っていてその支払い責任があるなら、この番号へ連絡をして新規サービスの登録をして下さい。 ワタシは勿論、直にそこへ電話を掛けた。そして必要書類を送ったりして、新規サービスの登録を済ませた。 ところが、一ヶ月経っても二ヶ月経っても、請求書にはガスの使用量のみが書かれていて、電気の欄には使用量が「ゼロ」と書かれている。だから電気代は、基本料金のみ請求してあった。 幾ら環境に優しいワタシだからと言っても、家にはコンピューターもあれば当時は電気電話・ファックス機も置いていたし、夜になれば電気も点けなけりゃ生活だって出来ないのだから、どうしたって電気使用量がゼロという事は在り得ない。 ワタシはまるでタダで使いまくっているようで気が気でないから、ちゃんと請求してくれ、と度々電話で訴えた。ところが会社の方では、なんでも以前の住人が支払いを滞納したので、電気のみ供給を止めて以来、針が動いていないという。 しかし良く良く調べてもらったら、ある時その住人の「いとこ」という人が現れて、住人は事故に遭って入院しているから支払いは出来ないが、なんとか電気を供給して欲しいと交渉しにやって来たそうだ。しかし会社としては、滞納しているうちの幾らかでも払って貰わなければ、供給を再開する事は出来ないと説明すると、その「いとこ」は帰って行ったという。 だからもしそれ以降に「何らかの形で」この部屋で電気が使える状態にされているのだとしたら、それは法に触れる行為である可能性があるから、貴方は早い所大家に話して、建物内部の配線状況を調査するように言うべきだという。 ワタシは引っ越して来てまだ間も無い頃、そしてまだ大家との関係がそれほど険悪でなかった頃、実際大家に電話をして、電気会社に手続きをしたらここん家の電気の様子が可笑しいと言っているから調べてくれ、と話した事がある。ところが奴は何しろ人の話をちゃんと聞かないから、いいからお前は兎に角その電気会社の事務所へ出掛けて行って、ちゃんと手続きをしてくれば良いんだよ等と繰り返すばかりで、埒が開かなかった。 それで電気会社に電話をする度に、大家にも電話をしてみたのだけれど、何度言っても人の話を聞かないから、案外これは大家も「ぐる」なのかも知れない等と思って、放っておいた。 そこへ持って来て、例の訴訟が始まり、それも漸く解決しそうかという頃になって、突然電気が切れてしまったのだ。 どうやらそれは、大家が半ば意図的にやった事らしい。手下の修理工が別のアパートの修理の為にやって来たついでに奇妙な配線を発見したので、それを切断したところ、ワタシの部屋の電気が見事に切れてしまったという訳だ。苦情を言ったところでいよいよアチラの思う壺であった。 ワタシは地下に集中ブレーカーボックスがあるのを知っていたから、一旦表へ出て、地下の住民の誰かが在宅である事を祈りながら、地下室へのブザーを鳴らした。(ここいらのアパートビルには、大抵地下にも部屋がある。中には地下に人が住むのが禁じられているビルもある。) すると一人の音楽家が出て来た。ここいらでは見慣れない人種だったからちょっと驚いたが、彼が言うには、友人が日本へ暫く帰っているので、その間猫の世話を頼まれてここに住んでいるとの事だった。 彼に中へ入れてもらって、ブレーカーボックスの入った扉を開けてみるのだが、勿論目盛りは全く動いていない。他に目ぼしい情報も無いと判断して、とりあえず彼と電話番号を交換する。又後でここへ入れて貰わねばならなくなるかも知れないからよろしくと言って、途方に暮れつつも一先ず自室へ戻ってきた。 そのうち大家の手下の修理工がやって来て、お前は自分の電気は自分で支払わなければいけないから、電気会社へ電話をしろという。それはもう何度もやったのだ、大家にも何度も説明している、と言うのに聞かないで、いいから電話しろと煩い。 それでまた電気会社へ電話をして、とうとう電気が止められてしまったのだけれど、唯今訴訟中で大家は電話に出ないのでどうしましょうと言うと、会社の人はお気の毒だが、こちらのコンピューター画面上では数年前から電気の目盛りは止まったままだから、何とも仕様が無いと言う。兎に角大家に連絡を付けて内部の配線を直すか、または自分で電気工事人を雇って直させ、支払いは大家に請求すると言う方法もありますよと言う。 ワタシは頭痛がしてきた。やれやれ、一難去って又一難。今度は電気ときたよ。 そこで、日頃ワタシたちの訴訟を助ける為に裁判所にまで助太刀しに来てくれている、市議会議員の秘書の女性がいる議員の地区事務所へ電話を掛けた。事情を説明すると、それではこの件についても訴訟を起こしましょう、兎に角気を落とさないように、頑張りなさいと励まされた。 それはそれで心強いのだが、しかしそうこうしているうちに宵闇が迫ってきた。 ワタシは電話を切るなり、近所の店へ走った。抱えられる限りのロウソクと懐中電灯の電池を買うと、早速部屋へ戻り夜を迎える準備をした。 翌日も、そのまた翌日も、とうとう電気は戻って来なかった。 時は八月の盛り。 ワタシは観念して、来宅した友人らが誤って冷蔵庫や冷凍庫を開けてしまうのを避けるために、黒いビニールテープでドアを封じて開かないようにした。言うまでも無く、中身は全滅であるが、悔しいから後片付けなどするものかと思う。 辛うじて食べる事が出来たのは、缶詰やカップに入ったものなど、日持ちのする乾物や非常食ばかりだった。自然と、角の中国料理店やピザ屋等の持ち帰り食が増えた。 風呂場にもロウソクを持って行って用事を済ませていたので、階下の住人から、風呂場の窓のカーテンを燃やさないように気を付けろと忠告を貰った。彼女は既にこれをやらかしていて、カーテンと言うのは良く燃えるものだと妙に感心していたから、それは随分説得力があった。 何しろこの現代社会に於いて、電気が無い生活と言うのは、相当過酷であった。 訴訟其の一、第十一話へつづく。
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