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みぃ
訴訟其の一、第六話。 この訴訟に関しては、住宅関係の問題を専門に扱う裁判所というのがあって、そこへ提出する訴状を一人一人用意しなければならなかった。それでワタシは、必要書類を取り寄せ、まだ運動に参加し続けている店子のうちニホンジンで言語に問題のある人々に書き方を説明し、これを集めて裁判所に提出に行く事にした。 その段になって、お隣のお姉さんが「ビビり」始めた。 彼女もまた大家からの嫌がらせの電話によって、精神的なダメージを受けていたのは確かである。しかし書類のコピーやら話し合いやらに熱を入れ過ぎ寝坊するなどして、当時通っていた語学学校に足が遠のき、遂に学校から最後通牒のようなものを貰っていた。これ以上学校に来ないと、外国人として滞在する為の許可証を出しません、というような内容だったと思う。 ワタシは自分の本業を犠牲にしてまでこういった運動をするのは本意で無いと言ったのだが、彼女はいや、やる時にはやらねばならないのだ、と言って聞かなかった。だからワタシが、ここまでにして今日はもう遅いからまた明日の晩に帰ってきてからにしましょう、などと言うのが気に入らないようだった。 とは言え、ワタシも日々こればかりに精を出している訳にもいかないから、じゃワタシはこれで休みます、と言って退散するようにしていたし、自宅を提供していた日には彼女にも適当にして帰って貰った。 それでも彼女は隣の自宅に戻ってから、運動参加者の「連絡網」のようなものを皆の許可無しに作って配布したり、日系地域新聞などに不動産屋の「悪徳業者」振りを暴露する内容の手紙を出したりするなど、独自な活動もして、多忙さを増大させていたようだ。そうやって自分の首を絞めていたから、精神的にも切羽詰っていたのかもしれない。 そうこうしているうち訴状が集まり出して、さあそれでは明日にでも裁判所に行って出してきましょうという日になった。話し合い会場であるワタシの自宅に隣のお姉さんが現れないので、こちらから電話をしてみると、彼女は突然ドラマチックに語り始めた。 アタシ、迷ってるの。 は? ワタシは既に集まっていた人々と顔を見合わせ、受話器を押さえて説明した。 アタシ、やっぱり訴えるのはもう少し考えようと思うの。 ワタシは堪らず聞いた。 何を考えるの? ええ、色々と。 ここへ来て皆の意見がまとまって、団結して訴状を出しに行こうと決まったのに、何を今更迷う事があるの? すると彼女はヒステリックに怒鳴り始めた。 迷ったっていいじゃない!人間なんだから迷う事くらいあるでしょう! ワタシは何故か非常事態に際して平素以上に冷静になるところがあるのだけれど、この時も逆上する事も無く、極めて冷静に言った。 勿論、貴方が迷うのは貴方の勝手だけれど、それに皆を巻き込むのはどうかと思うのよ。ここまでまとめるのに随分労力が要ったし、ワタシの時間もエネルギィも犠牲にして本業にも支障が出て来たし、また度重なる嫌がらせにも堪えて来た訳だし。それを誰か一人が迷ってるくらいの事で、全てを無にする訳には行かないのよ。今だってこうして皆集まって、頑張って作業を進めているというのに、そこへ言い出しっぺの貴方に突然迷ってると言われても、こっちも困るの。 すると彼女は忽ちぶち切れた。怒鳴っている内容は、もう何が何やら分からなかった。ワタシは堪りかねて受話器を耳から放した。何しろ闇雲にわあわあと怒鳴っているから、初めのうちはワタシもまあ落ち着いてなどと言っていたのが段々効かなくなってきて、苛々し始めた。 そのうちとうとう頭に来て、 ところで貴方、「連絡網」とやらを作って配っているそうだけど、個人情報を公開するにあたって、掲載する人たちの許可は取ったの?ワタシはそういう話は聞いて無いし、「連絡網」自体貰って無いから、何が起こっているのか知らないけど、勝手な事してると訴えられるわよ、 と言ったが最後、彼女は何か怒鳴った後、がちゃんと電話を切ってしまった。 残されたワタシたちは、互いに顔を見合わせ、溜息をついた。 彼女、何テンパってるの? 困るよなあ、そういうの。 それで一体何がしたい訳? ビビってるんでしょ、要するに。 翌日、訴状の提出をしに裁判所に出掛けた。隣のお姉さんは、自分は別個に訴状を出すから構わないでくれと言って来た(と別の住民が伝えてきた)ので、階下の住人と連れ立って出掛けることにした。 第七話に続く。
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