|
|
■■■
■■
■ エゼキエル47章
エゼキエル書47章を読みました。
神の国(千年王国)の神殿の敷居の下から、
水が流れ出ています。
主の使いが測りなわを持って1千キュビト(約5.3km)
測り、エゼキエルに川を渡らせると
足首ほどの水でした。
さらに1千キュビト先では、ひざ。
さらに1千キュビト先では、腰。
さらに1千キュビト先では渡ることのできない川となり
水かさは増し、泳げるほどとなりました。
ヨエル書3:18では
「主の宮から泉がわきいで」
とあり、「わき泉」であることが分かります。
昨日の日記で、神の国では「仮庵の祭り」を祝うことを
書きました。
新約聖書で「仮庵の祭り」が出て来るのは
ヨハネ7章です。
その祭りの終わりの大いなる日に、イエス様は大声で
言われました。
「だれでも渇いているなら、私のもとに来て
飲みなさい。
わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、
その人の心の奥底から、生ける水の川が流れるように
なる。」(ヨハネ7:37,38)
エゼキエル書の神の国の神殿から流れ出る川は
死海へと流れて行き、今は塩が濃すぎて魚が住めない
あの死海が、水が良くなり非常に多くの魚が
いるようになる、
と書かれています。(エゼキエル47:8、9)
川の両岸には果物の生る木が生え、
毎月新しい実をつけます。
その実は、食料となり、その葉は薬となります。
(黙示録22章「新天新地」でも神と小羊の御座から
水の川が流れ、その両岸にはいのちの木があります。)
今日気づいたのは、葉が薬となるし、
また水があることです。
千年王国、そして新天新地では病気がないとありますが
それは完全体になるイメージだったのですが
「いつでも神様に頼る自分になる」
ということなのかもしれません。
「もう私は水はいらない」という者になることではなく
「いつでもイエス様に頼りつづける者」
「水を毎日イエス様からいただく者」
それから、川の深さが最初は足首ほどだったのが
どんどん深くなって、最後は足がつかないほどの川に
なるのもいいなぁー!と思いました。
御霊に導かれること。
明石先生の解説にこうありました。
「3B 信仰による御霊の満たし
イエス様はここで、「わたしを信じる者は」と言われました。イエス様を信じる者が、御霊の注ぎを受 けることができます。私たちは何かをしなければいけないのではないのです。神を信じる、イエス様を 信じる、この方がおられること、この方が働いておられることを、目で認めることができなくても信じる のです。その信仰を働かせると、御霊が力強く私たちに働いてくださいます。そして、溢れるように水 を流してくださいます。エゼキエルが、足から腰へ、腰から溺れる程の水かさへ、川がどんどん深くな っていったのを見ましたが、聖霊の働きも次第に大きくなります。これまで自分が牽引して動かしてい た自分の人生が、聖霊が牽引して動かす人生へと変えられます。川が深くて、足が付けなくなるよう に、自分ではなく、神が自分を動かしてくださる人生です。 」
2024年10月17日(木)
|
|
|