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■ なぜ死のうとするのか
今日の礼拝はエゼキエル書18章からでした。
時代背景は、バビロン捕囚のときです。
ユダの国はバビロンに攻め入られます。
そして民の多くはバビロンに強制移住させられました。
(第一次バビロン捕囚:BC597年
第二次:BC586年、 第三次:BC581年)
それは、ユダの人々が、真の神様を忘れ
偶像の偽の神々を拝んで、そむいたことの結果でした。
歴史をご支配なさる神は、苦しみを与えることを通して
民に自分の罪に気づかせ、
真の神に立ち返るようにされているのです。
(そうでない苦しみもあります。)
けれども人々は「神は我々を見捨てた。」と言ったり
また移住を免れた人々は、移住させられた人々に対し
「あれは悪い民、自分たちは良い民」と自惚れました。
子どもたちは「親のせいで不幸になった」と言い、
また苦しみの中で、「神を信じても何もならない」と
言う人もありました。
その中で、神様は神のことばを民に伝えるために
エゼキエルをお送りになりました。
その中のことばのひとつが今日の個所です。
「あなたがたの犯したすべてのそむきの罪を
あなたがたの中から放り出せ。
こうして新しい心と新しい霊を得よ。
イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうと
するのか。
わたしは、だれが死ぬのも喜ばないからだ。
ー神である主の御告げ。ー
だから、悔い改めて、生きよ。」
(エゼキエル18:31〜32)
神様は、今も立ち返ることを願っておられます。
私たちが神に背をむけたまま
永遠の死に向かうことが無いよう叫んでおられます。
神様を忘れ、そむいた私たちの罪。
その払いようもない大きな負債を
この方ひとりの上に背負わせ、叫んでおられます。
「悔い改めて、生きよ。」
先日動画でイエス様の十字架のシーンを観ました。
映画「The Passion of Christ」からのもののようです。
当時は痛みの表現が強すぎて観れませんでしたが、
私を罪から救い出すためには、ここまでしなければ
ならなかったんだと思いました。
キリストが代わりに罰を負ってくださったので
もう何も恐れることはありません。
ここには貼れませんが、良かったらご覧ください。
キリスト教は人間が作りだした宗教だ。
と言われることがあります。
けれど、イエス様がいらして、
十字架にかかられたということは、
動かしようがない歴史の出来事なのです。
2022年08月28日(日)
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