ちょっくれいとぼっくす
めにゅ|ばっく|ごぅ
生まれてから小学5年生までを わたしは同じ名古屋市の瑞穂区というところで育った。
今日は久々にそこの近くを姉の車で通りかかり 家のあったところまで行ってみようということになった。
大きな交差点を南にいくと通りにはちょっとした小料理屋があり そこのショーウインドウには串刺しにされた金魚が並んでいて わたしは子ども心になんてヒドイことをするんだろう? と朝夕の通学のたびにそう思っていたのだが(あれは鯛の塩焼きだったのか?) お店はこじゃれたブティックになっていた。
そこをまっすぐに行って角の同級生の水谷くんの家を右に回る。 ここの家は大きな門をくぐって入る家で、怖いおじいさんと小さな妹がいた。 その妹は木製の素敵な木馬を持っていて わたしはその木馬を見るたびに「あんなのに乗ってみたかったのに」 と木馬に乗るには大きくなりすぎた自分を呪ったのであった。
水谷家の斜め左側には県営住宅があって 住宅の中のブランコがあるちょっとした遊び場でよく遊んだ。 遊び場には小さな花壇があって 友だちと秋にはつつじの花の蜜を吸ってみたり ぺんぺん草の葉が千切れないように用心深く引っ張って ぺんぺんと音が出して遊んだりもした。(決してぺんぺんとは鳴らなかったけど)
その通りの次の通りに我が家があった訳だが 左折してちょっと驚いた。 わたしが思っていたよりもずっとずっと小さな通りだったのだ。
住んでいた家はすでにないのは知っていたが 今ではそこは駐車場となっていた。 向かいには4軒ほどの長屋があったのだがそこも空き地になっていて すでに長い間放置してあるのか高く雑草が覆いかぶさっていた。
そこには魚市場で働いている加藤さんのうちがあって 加藤さんとこの小柄で声も小さい女の子とブロックでよく遊んだ。 その隣は河野さんのおばさんのうちで葬式に飾る花を内職で作っていた。
おばさんはとってもよい人で外で遊んでいるわたしたちを呼んで ティッシュに包んだ金平糖とかあられとかのおやつをよくくれた。
通りの南端にはちょっとした広場があって まるでドラえもんに出てくる空き地みたいに土管がどかんと置かれていた。
行き止まりは蟹江さんちで そこの大きな庭は夏になるとセミの宝庫で 夏にはそこの庭でよくセミを取りに行った。 木々がうっそうとしたそこの庭はお昼近くでも日陰になっていて真夏でも涼しく わたしたちのオアシスだった。
そして家の前のその路地で近所の子どもたちとよく泥巡をしたり 缶けりをしたりと暗くなるまでよく遊んだ。
そんな通りの路地は今見ると車がすれ違うのも危ういちっぽけな道路だった。
「えー、こんなに細い道だっけ?」 とわたしが言うと7歳上の姉でさえ 「わたしももっと広い道路だったと思ってた、、、」 とショックを受けた様子だった。
右折をするとあの頃ではかなり珍しかった”チン”という中国種の犬を放し飼いにしていた立派な家があった。 ”チン”の家を右折すると「加藤くん」の家がある。 加藤くんの家にはざくろの木があったんだがそれもなくなっていた。
しかもみんなわたしの記憶より遥かに小さかった。 通りも家も、塀 の高さも。
わたしが小さい頃にテリトリーとしていた家の前の路地は ほんの100mほどだったのだ。 わたしの記憶の中ではその倍はあったと言うのに!
そして姉と帰りの車中で ボロボロのところどころ穴のあいた途端屋根の上で 度胸試しみたいに歩いたことや 裏の潰れた土建やの山と詰まれた木材を基地にして遊んでたことなんかを 思い出しながら話て帰った。
小さくてもあの路地には今でも思い出がいっぱい詰まってるのだ。 当時はすごく遠く感じたあの通学路も、広場も、神社も。 それはもう一人の姉も弟も一緒に違いない。
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