Mako Hakkinenn's Voice
by Mako Hakkinenn



 F1日本グランプリ、最終結論
2005年10月14日(金)

 今更ですが、先週末行われたF1第18戦日本グランプリの決勝中に起こった、最終シケインでの佐藤琢磨(BAR・ホンダ)とヤルノ・トゥルーリ(トヨタ)の接触事故についての、僕が判断した最終結論をご報告いたします。

 まずもう一度アクシデントの状況を振り返ってみましょう。


アクシデントが起こった最終シケイン
(c)F1-Live.com

 アクシデントは10周目の最終シケインで起こりました。佐藤琢磨は前をゆくトゥルーリを交わそうと、右に曲がる最終シケインの入口でトゥルーリのイン側に入りました。しかしアウト側にいたトゥルーリもコーナリングをするために右へステアリングを切り、両者は接触。琢磨の左フロントタイヤがトゥルーリの右サイドにヒットし、トゥルーリはその場でリタイアとなってしまいます。琢磨もマシンにダメージを受けますが、交換できるパーツではなかったためそのまま走行を続け、最終的に13位でフィニッシュしました。
 しかし、レース後の審議で琢磨に過失があると判断され、琢磨は13位完走というリザルトを抹消されるペナルティを受け、この結果次戦中国グランプリの予選でもっとも不利な1番手出走を余儀なくされました。

 レース中継の映像はアウト側のトゥルーリ側から撮られた真横からの映像しかなかったため、どちらに否があるのかという判断ができなかったのですが、アクシデントの瞬間をほぼ正面から捉えた写真を発見したので、今回改めて判断することができました。

 最終結論、今回のアクシデントは、どちらにも否はない。

 

アクシデントの瞬間
(c)F1-Live.com

 写真を見てもおわかりのように、接触した地点はシケイン入口のイン側の縁石付近で、この時点で琢磨の左フロントがトゥルーリの右サイドにヒットしているのを見ても、琢磨が少なくともコーナーに進入する時点でトゥルーリにマシンの半分以上並んでいたことがわかります。
 これは琢磨がコーナー手前ですでに完全にトゥルーリのインに入っていたことを意味し、その場合トゥルーリは、ルール上琢磨にラインを譲るためにイン側をマシン1台分開ける必要がありました。ところが、トゥルーリはイン側のスペースを開けず、通常のコーナリングと同じようにターンインしたために接触してしまいました。

 しかし、琢磨のためにイン側のスペースを開けずに、通常のコーナリングをしようとインに切り込んできたトゥルーリに否があるとも言い切れません。琢磨がシケインでインに入りトゥルーリをパスしようとした試みは、ここ数年のF1シーンでは見られないようなチャレンジングな試みであり、トゥルーリもまさかここで仕掛けてくるとは思っていなかったでしょう。トゥルーリはあの瞬間、琢磨が引くと判断して通常のコーナリングを行おうとしたのです。ところが、琢磨は一歩も引かずインを突き、両者は接触してしまいました。

 琢磨のように一瞬のチャンスを突いて前に出ようとするのもレース。そしてトゥルーリのように「易々とぬかせはしないぞ」と抑え込もうとするのもまたレース。レースとは、ドライバー同士の熾烈な意地のぶつかり合いなのです。おそらくあのアイルトン・セナも、ジル・ビルヌーヴも、ナイジェル・マンセルも、今回の琢磨と同じことをしたに違いありません。

 上記の理由から、琢磨もトゥルーリも“レース”をしていた上でのアクシデントであり、単純なレースアクシデントであったと結論づけ、処分は「両者不問」が適正であると判断します。従って琢磨に否があるというFIAの判断は不当であったと断言します。ましてや、リザルト抹消という処分は、今年の予選ルールからすれば極めて重すぎる処分であり、まったくあり得ないものであると言わざるを得ません。

 仮に今回の処分に「常習犯」に対する見せしめの意味があるのだとしたら、前々回のベルギーでミハエル・シューマッハに追突した際に受けた、「次戦10グリッド降格」というあまりにも厳しい処分は何だったのでしょうか。通常、例えベルギーの一件のように完全に琢磨に否があるケースだったとしても、決して悪質なものではなかったのは紛れもない事実であり、厳重注意か、重くて罰金程度が妥当です。
 もしこのベルギーでの「次戦10グリッド降格」という処分自体が、すでに過去幾度か起こしている接触事故を含めた「常習犯」という意味での重い処罰だったとしたら、それこそお門違いというものです。

 琢磨は過去にも接触アクシデントに見舞われていますが、その多くは琢磨には否はありません。現代の生ぬるいF1シーンの中で、琢磨の攻撃的なドライビングスタイルが、他のドライバーの常識を越えていたと言うだけです。言い換えれば、今のF1はあまりにも幼稚でのほほんとした“お遊び”に成り果ててしまったということです。

 琢磨の日本グランプリでの試みが否定されるのであれば、もはやF1はレースなどではありません。琢磨のドライビングスタイルこそが真のレーサーに必要なものであることは、海外のF1ファンも認めていることです。佐藤琢磨は、この甘っちょろい現代のF1にこそ必要なドライバーなのです。

 それから、琢磨に対する度重なる重い処罰は、単なるFIAの人種差別ですよ。そんなにFIAは日本人が嫌いなのか?F1がヨーロッパの文化と言われたのはもはや過去の話。今や日本を始め、アメリカ、中国、バーレーン、マレーシア、トルコと世界各国を転戦する現代において、未だにこのような人種差別が存在しているというのが愚かとしか言いようがありませんな。

 今回の僕の主張に意義のある方はBarまでどうぞ。受けて立ちますぞ。



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